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考察・天地真理

またまたのお久しぶりです。
今はこのあたり、桜が満開です(^^)

今回は初の試みで、文体を変えて書きました。
えらそーに思えたらスミマセンm(_ _)m
(文中、すべて敬称略です)
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天地真理.jpg 

ピンク・レディーやキャンディーズ、山口百恵に桜田淳子…
70年代に人気を博したこういったアイドル歌手は、なぜ今の時代でも忘れられないのだろう。
そう考えた時、その原点に最も近いのが前回採り上げた南沙織、そして天地真理ではないだろうか。
今回は天地真理について、特定の楽曲ではなく一人の歌手としてどうだったのか、
ファン目線で考察してみたい。
プロフィール的なものはネット等で調べればいくらでも出てくるので、ここでは触れない。

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実質的に、天地真理がアイドル歌手として活躍していたのはデビュー曲「水色の恋」から、
13作目のシングル「愛のアルバム」までであろうと、筆者は思っている。
14作目の「初めての涙」は1975年夏のミュージカル「君よ知るや南の国」の演目中の曲であり、
この頃からアイドルから本格的な歌手活動に移行していったように感じられるからである。
同時に人気が急激に落ちていったのは、ファンとしては今もやるせない気持ちにさせられるが…。


ドラマ「時間ですよ」(TBS)ですでに広く知られていた天地真理のレコード歌手としてのデビューは
1971年10月1日。
すでに人気者であった事もあり、デビュー曲「水色の恋」はオリコンシングルチャート最高2位、
27週チャートインの大ヒットを記録する(チャートイン週数はこの曲が全シングル中で最長)。

国立(くにたち)音楽大学付属高校で声楽を学んでいた天地の歌唱は、この曲からほぼすべての楽曲で
ファルセット(裏声)での歌唱で一貫しており、レコード化された音源で地声で歌われているのは、
先述のミュージカルで披露された「気が合う同志」だけである。

「水色の恋」から「愛のアルバム」まで(全シングルを通してもほぼ同じ)での天地の声域は、
下のA♭(「ひとりじゃないの」等)から上のD(「愛のアルバム」等)までの1オクターブ+4度半と、
決して広い方ではない。
しかしやわらかくクセの少ない音色で、聴く者に安心感や安らぎを与える声質と言える。

声楽を学んでいたわりには声量が大きい方ではなく(実際はかなりセーブしていたものと思われるが
数年後、本来の声量が発揮される…それは後ほど)、
周期がごく短く振幅の小さい、転がるようなちりめん風のビブラートをかける歌い方が大きな特徴だった。

その声質と、楽譜をそのまま素直に歌にするような歌唱法が広く受け入れられた結果、
人気の急上昇で慌てて即席に作られたようなデビューアルバム「水色の恋/涙から明日へ」が、
デビュー翌年の1972年の2月から6月にかけてオリコンアルバムチャートの1位をほぼ独走した。
当時、人気歌手でもアルバムは10万枚も売れれば大ヒットだったが、
「水色の恋/涙から明日へ」は26.1万枚の売り上げを記録し、チャートイン週数は40週に達した。

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例えば松田聖子だとシングル曲はほぼ全部が長調、
山口百恵や中森明菜のそれは大部分が短調と偏りがちなのだが、
天地真理のシングルA面曲は長調・短調の配分のバランスが良かった。

・長調… 水色の恋 ひとりじゃないの 虹をわたって ふたりの日曜日 恋する夏の日
     空いっぱいの幸せ 恋と海とTシャツと

・短調… 若葉のささやき 恋人たちの港 想い出のセレナーデ 木枯らしの舗道
     愛のアルバム

・平行調で短調→長調… ちいさな恋

「想い出のセレナーデ」以前の短調の楽曲は、メロディーには短調らしい哀愁があるものの、
歌詞の内容はほぼハッピーなのが天地らしさの一つとも言える。
それは恐らく所属事務所の意向であったのだろうが、
楽曲面から見た場合、「天地真理は明るいだけ」のイメージにシフトしてしまったのが、
人気失速の原因の一つだったと言えなくもない。

初期の「ちいさな恋」「ひとりじゃないの」「虹をわたって」あたりまでは、
明るいながらもどこか哀愁を感じさせる流れも感じられる作りであるのだが
(具体的には、特に森田公一作曲ではコードに対して6度の音が随所に使われている)、
平尾昌晃作曲でオリコンで1位を穫れなかった「ふたりの日曜日」以降、
次作の「若葉のささやき」の哀愁路線後はひたすら「明るい」イメージを維持させる作りになっていった。

その「若葉のささやき」の頃から天地の歌唱法に変化が出てきた。
それまでのちりめん風ビブラートから、周期がやや長く深めのビブラートに変わってきたのだ。
同時に声量も変化し、「恋と海とTシャツ」の歌い終わりにつくハーモニーでは、どの曲の歌メロにもない
上のE♭まで達する高音と、それまでになかったような明るく力強い声が聴ける
(オリジナル・カラオケで聴くとさらによくわかる)。


天地真理のシングルA面曲のキーは

「水色の恋」E、「ちいさな恋」Am→A、「虹をわたって」B♭、「ふたりの日曜日」F、
「若葉のささやき」B♭m、「空いっぱいの幸せ」G、「恋人たちの港」Em、
「想い出のセレナーデ」E♭m、「木枯らしの舗道」B♭m、「愛のアルバム」F#m

とバラバラと言って良く、曲調のバラエティに富んでいたと言える。

しかし1972年から3年続けて、夏発売のシングルは同じ作曲家で同じキー(A♭)である
(「ひとりじゃないの」「恋する夏の日」「恋と海とTシャツと」…森田公一作曲)。
森田公一は天地の他の曲も書いているが、夏向けには何か秘策めいたものがあったのだろうか。

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シンセサイザーがまだ一般的でなかった時代、歌謡曲においてはストリングスのサウンドが
楽曲のイメージ付けに大きな役割を担っていた。

天地真理の楽曲も例外ではなく、デビュー曲から森岡賢一郎、馬飼野俊一、竜崎孝路と言った
ストリングスのアレンジに長けた編曲家が中心になり、
天地のやわらかな声質を際立たせるようなサウンドを構築していた。

それが目立ち始めたのはシングル4作目「虹をわたって」からで、
歌とストリングスが交互に目立つような作りになっている。
ストリングスならではの「駆け上がり」と呼ばれる奏法は殆ど使われず、
あくまでも主役を天地に据えながら、音楽として楽しく聴けるように作られているのだ。

ストリングスが最も目立つのは6作目「若葉のささやき」で、
編曲の竜崎孝路はこの曲で1973年の日本レコード大賞編曲賞を受賞しているが、
筆者は個人的に、この曲のアレンジはちょっと頑張り過ぎのように聴こえてしまう。
特にサビの ♪愛は喜び それとも涙♪ の部分などはバイオリンの音が目立ち過ぎ、
ややうるさくも感じてしまうのだ。

同じ事が12作目の「木枯らしの舗道」でも言える。
この曲の編曲は当時キャンディーズも担当していた穂口雄右だが、
12弦ギターとストリングスが同時に鳴っていて少々しつこく感じる部分があったり、
2コーラス目が終わってからのハーフでストリングスが歌の邪魔をしているようだったりと、
ミキシングのバランスも含め少々残念な仕上がりである。

傑作アレンジと思えるのが7作目「恋する夏の日」と、
11作目の「想い出のセレナーデ」。

「恋する夏の日」でストリングスが主メロを演奏する部分がなくバックで流れ作りに徹しているが、
特に高音域はほぼ限界の高さの音まで用いて夏のイメージを強調していたり、
♪愛することを はじめて知った♪ ではピチカート奏法で歌メロと対位法を形成していたり、
さらに天地の曲では珍しい派手な駆け上がりを使って緊張感を煽ったりと、
適所に聴かせどころを設けたアレンジは恐らく、レコードの売り上げアップにも貢献していそうだ。

「想い出のセレナーデ」についてはこのブログでも以前書いた事だが、
ストリングスには定評のあるマントヴァーニが採り入れた事で知られる
「カスケーディング・ストリングス」のテクニックを応用した、
波が次々に押し寄せるようなサウンドを歌謡曲で聴けると言う、かなり画期的なアレンジ、楽曲である。
このアレンジは「若葉のささやき」と同じ竜崎孝路であり、
やはり特にストリングスのアレンジについて造詣の深い人物である事が伺える。

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天地真理と聞くと弾むようなリズムの曲をイメージする人も多いのではないだろうか。

確かに「ひとりじゃないの」「虹をわたって」「若葉のささやき」などは
「弾むような」シャッフルのリズムで大ヒットした楽曲だが、
「ふたりの日曜日」は16ビート、「木枯らしの舗道」はワルツ、
そのほかはややアップテンポな8ビートであるのがほとんどで、「弾むような」曲は意外と少ない。
先述のように長調の曲と短調の曲が数曲ずつある事を見ても、
ただ楽しいだけではない、万人の鑑賞に耐えうる楽曲が多い事がわかる。

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歌謡曲でレコードが売れる要素の一つがボーカルのサウンド。

天地真理が活躍した70年代前半では、ボーカルのサウンド作りは
二重三重にしてコーラス効果を付加するか、イコライザーで音色を変えるか、
エコーやリバーブを工夫するか、またはそれらを組み合わせる事で行われていた。

天地真理は、シングルA面曲で一人二重唱が用いられている曲は「恋と海とTシャツと」だけであり、
ユニゾンで一人二重唱が使われているのは皆無である(B面ならば「風を見た人」で聴ける)。
それは、天地真理はファルセット唱法であり、地声と比べると倍音成分が少ないため、
声を二重三重にしても効果的ではないためであろう。

その代わりテープを使ったエコーとの相性は抜群で、
「ふたりの日曜日」「恋する夏の日」ではそれが成功しエコー音がボーカルの一部に、
そしてアレンジの一部となり全体のサウンドイメージ作りに貢献している。

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天地真理は1977年に休業、1979年に復帰したが、
復帰直前にレコーディングされファンクラブ会員を対象に配布されたと言う楽曲が
「夏を忘れた海」。

この曲は元々1972年12月に発売された天地真理4枚目のアルバム(ベストアルバムを除く)である
「明日へのメロディー」に収録されていたが、
ファンの間で人気の高い1曲だった。
筆者は1973年に放送された「ひるの歌謡曲」(NHK-FM)でこの曲を知り、
「シングル以外にもこんな良い曲があったのか」と驚いたものだ。

1979年の同曲は新アレンジ(編曲:戸塚修)での披露となったが、
それ以上に目覚ましかったのは天地の歌唱。
相変わらずのファルセット唱法ではあったが、その声量は以前の数倍とも感じられる、
それが天地の本来の歌唱であるとも思えるパワフルなものと変貌していた。

歌詞の内容もあり「歌い上げる」イメージの楽曲・歌唱ではないが、
以前よりも遥かに強い芯が感じられ、それでいて情感が豊かなその声に、
初めて聴いた時には驚愕したものだ。

と言っても筆者がその新録音バージョンを初めて聴いたのは、
2006年に発売されたボックスセット「天地真理プレミアム」を購入して、だったので、
もう何を言ってもすでに過去のものであり「今頃知っても遅い」状況であったのが、
何ともつらい思いにさせられた。

もったいない…。

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しかし、である。

あれから40年以上経った今も、冒頭に述べたように、
天地真理と言う名前とそのいくつかの楽曲は、今も確かに生きている。
若い世代にも昭和歌謡が人気がある、と言うのも、どうやら本当らしい。

他のほとんどの歌手と同じように、天地真理の楽曲も本人と当時のスタッフ、
そして作家とのチームワークの産物なのである。

自分にとって最初のアイドルだったのに…。
そんな感情・感傷を外して改めて聴いてみたら、以前とは違った音に聞こえるかも知れない。

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考察・小柳ルミ子

今回も調子に乗って評論家風に考察してみました:

わたしの城下町.jpgお久しぶりね.jpg

小柳ルミ子ほど、優れた実績に比してその存在が重要視されない歌手も珍しい。
歌手の実績として最も重要なのはレコードの売り上げだが、
小柳ルミ子のシングル盤は、オリコンチャートで最高位が20位内に入ったのが19曲、
そのうち10位以内に入ったのが12曲、3位以内に入ったのが7曲、首位獲得が4曲。
中でも「わたしの城下町」「瀬戸の花嫁」「お久しぶりね」などはほぼスタンダード…
と、十分すぎるほどの成績を残している。

1970年代前半に新三人娘が人気を博したが、その中でも小柳の実績は抜きん出ている。
天地真理はオリコン首位曲が小柳よりも1曲多いが、シングル曲が10位以内にランクされたのは
1972年から1974年で足掛け3年。
南沙織のそれは1971年から1975年で足掛け5年。
しかし小柳ルミ子は1971年から1983年の足掛け13年。
アイドル的な人気が落ち着いた1975年以降はヒットは散発的だったが、
他の二人よりも圧倒的に長い間ヒット曲が出ていた。

それを見ただけでも間違いなく大スターなのだが、昭和歌謡が持て囃されている現在でも、
歌手・小柳ルミ子の名前をメディア等であまり見る事が無いのはもどかしいものがある。

今回は、デビューから1974年夏までを第一期とし、その期間の実績を中心に語りたい。

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小柳ルミ子の歌唱は、デビュー曲「わたしの城下町」ですでに完成されていた。
作曲の平尾昌晃は、小柳の声域もろくに調べずにこの曲のメロディーを書き上げていたそうで、
小柳は著書で「もし私が上の『ミ』を出せない歌手だったらどうなっていたのでしょう」
と書いている。

自身で練習を重ねて臨んだレコーディングでは、最初のテイクでほぼ完璧な歌唱だったそうで、
その後はどの曲のレコーディングでもいつもそのような調子であったため、
制作者関係には「テイクワンのおルミ」と呼ばれていたそうだ。

デビュー曲はオリコン首位を12週続け、売り上げ134.3万枚を記録する大ヒットとなったが、
小柳ルミ子はいわゆる「一発屋」にはならなかった。
2曲目の「お祭りの夜」は50.9万枚(最高2位)、3曲目の「雪あかりの町」は23.2万枚(最高5位)
と売り上げは約1/2ずつ減っていったところに4曲目「瀬戸の花嫁」が発売され、
再びオリコン1位、74.1万枚を記録する大ヒットとなる。

続く今陽子のカバー「京のにわか雨」もオリコン1位を獲得した後、しばらく中ヒットが続き、
1974年夏の「ひとり囃子」では同最高位が初めて20位外となった(21位)が、
その次の「冬の駅」で2年ぶりに1位を獲得し、小柳よりも半年遅いデビューながら当時、
人気の低下が顕著になってきていた天地真理とは対照的に、
小柳ルミ子が人気に頼らず、楽曲に恵まれればヒットさせられる歌手である事を知らしめた。

小柳ルミ子はその後も1977年には「星の砂」(最高2位、53.5万枚)、
1983年には「お久しぶりね」(最高8位、39.7万枚)と大ヒットを重ねる事になる。

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小柳ルミ子の第一期のヒット曲は、簡単な振りはあるものの、
淡々と聴かせる穏やかな楽曲が多かった。

歌唱法には特筆すべき点が2つある。

一つは大きな肺活量で、それが特に感じられるのは「わたしの城下町」。
1番の歌い終わり ♪行き交う人に…心は燃えてゆく♪ の長いフレーズを途中ブレス無しで
一気に歌っており、それはハーフ部の ♪ゆらゆら揺れる…気まずく別れたの♪ でも同じ。
全く苦しげではなくむしろ余裕たっぷりで、大きく盛り上げて歌い終わっている。

もう一つは、地声と裏声を自在にまぜこぜにして歌う事である。
女性歌手は地声で高い声の限界近くまで出し、その上は裏声にするか、
最も低い音程から高い音程まで裏声のみで歌うパターンのどちらかである場合が多いが、
小柳は地声でも楽に出せる中音域でも裏声を使う場合や、
かなり高い音程まで地声で出す場合があり(声域については後述)、
その使い分けは歌の内容を理解した上で小柳自身が決めていたものと思われる。

小柳の声質は、地声がハスキーがかった特色のあるもので、
裏声は地声よりも丸みを感じさせながらも特色が残った音色であり、
地声・裏声に関係なく声質自体にすでに色気と情感が感じられるのである。

また曲によっては、独特の「泣き」が感じられる。
特に「わたしの城下町」のB面「木彫りの人形」や「お祭りの夜」での、
泣きが入って歌い終わるところは絶品である。

裏声は高い声が楽に出せる代わりに倍音が削られ丸い音になりがち、
また声量も地声に比べて小さくなりがちなのだが、
小柳の場合は地声の音色が裏声にも反映し、声量もほぼ変わらない。
そのため、音域の広いメロディーでも、例えば由紀さおりや岡崎友紀のように、
ある高さから急に「裏声になった」と感じさせずに歌い通す事ができている。

そのため、あの曲だとこの音程では裏声なのにこの曲では地声…と言った事も多々あり、
例えば「京のにわか雨」では、Bメロの ♪…ひとりぼっち 泣きながら♪ は地声だが、
「わたしの城下町」「お祭りの夜」などで同じ音程を使うフレーズでは裏声だったりする。

すなわち、小柳の場合は地声ではここから高い声はもう出ないから裏声に…ではなく、
どちらでも歌える音程で切り替えている事が、音域の広い曲もスムーズに歌える要因である。

数は少ないが、地声から裏声に変わるのをハッキリ確認できる楽曲もある。
例えば「春のおとずれ」の2番のAメロで ♪お茶を運んだ 障子の外に♪ では、
「障子の」の「のー」と音程が上がる部分で地声から裏声に切り替わるのが確認できる。

特色のある声質、正確な音程、深く豊かなビブラートを含む高度な歌唱テクニック、
そしてそれぞれの楽曲に対する的確な解釈により、
小柳ルミ子は新三人娘の中で突出した歌唱力を発揮していたのである。

小柳ルミ子が音源に残している声域は、
下限がF#3(「十五夜の君」等)、上限は地声だとB4(「お久しぶりね」「今さらジロー」等)、
裏声ではF5(「漁火恋唄」)で、あと半音で2オクターブに届くほどの広さだ。

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新三人娘の中では最も活躍した期間の長かった小柳ルミ子だが、
人気的には天地真理、南沙織と同様に1972年がピークで、
楽曲では1974年夏の「ひとり囃子」までが前述した第一期と考える事ができる。

次の「冬の駅」ではヘアスタイルを変え、それまでのカジュアルな衣装から
楽曲に合わせた衣装の着用が目立つようになり、
その楽曲も日本的な情緒を意識しないものが主になってきたため、
第二期に入ったと判断できる。


ここで第一期の楽曲を振り返ってみよう。

デビュー曲「わたしの城下町」はその後の楽曲に大きな影響を残した。
「お祭りの夜」「雪あかりの町」「瀬戸の花嫁」「京のにわか雨」「漁火恋唄」「春のおとずれ」
「十五夜の君」「恋の雪別れ」「花のようにひそやかに」そして「ひとり囃子」と、
シングル8枚目の「恋にゆれて」以外はどれも、「わたしの城下町」で打ち出し、
国鉄のキャンペーン「ディスカバー・ジャパン」のコンセプトを通していると思われる。

作詞は安井かずみ、山上路夫が主で、「京のにわか雨」がなかにし礼、
「花のようにひそやかに」が阿久悠、「ひとり囃子」が喜多條忠。
作曲は「春のおとずれ」が森田公一、「十五夜の君」が浜圭介、それ以外は平尾昌晃。
編曲は森岡賢一郎が全曲を担当している。

当時の歌謡曲は大ヒット曲が出ると次も同じ路線で二匹目のドジョウを狙うパターンが多かったが、
小柳ルミ子の楽曲で明らかにそれが感じられたのは第二期以降の「冬の駅」→「黄昏の街」、
「星の砂」→「湖の祈り」であり、第一期にはそのパターンがほぼなく、
新曲のたびに新しい要素を積み上げていった印象が強い。

そして小柳の安定した歌唱と、森岡賢一郎の幅がありながらも統一感のあるアレンジにより、
バラバラ感が少なく、どれを聴いても安心感のある心地よい仕上がりになっている。

その中で冒険作と思われるのはシングル6作目の「漁火恋唄」と10作目の「恋の雪別れ」。

「漁火恋唄」はヨナ抜き短音階を軸に作られたメロディーの流れるように進行するかと思うと
突然♪ハァ~…♪と民謡風になり、ついには無伴奏で歌い上げ間奏やエンディングに…
と、自身の持ち歌だけでなく全歌謡曲の中でも多分にアグレッシブな1曲であり、
小柳はこの難曲をテレビやステージなどの生歌でもキッチリとこなしていた。
大変な実力である。

「恋の雪別れ」はその前作「十五夜の君」までの、やや演歌歌手的だったイメージを覆し、
ポップス寄りのアレンジとサウンドに挑戦し成功した意欲作である。
シングルでは初めて女性コーラスが入り、ドラムスの独特なサウンドやボーカルにかかる
エコーの曲中オン・オフなど、それまでに無かった試みが聴き取れる。

逆に似たタイプの楽曲も確かにあって、例えば「恋にゆれて」は「瀬戸の花嫁」、
「十五夜の君」は「京のにわか雨」+「漁火恋唄」のようなイメージがある。
しかし前述の「冬の駅」→「黄昏の街」のような露骨な二番煎じではないので、いいとしよう。

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「なんであんなになっちゃったんだろう」

1960年代~1970年代にデビューし、やがてイメージが変わり
かつてのファンにそう言わせた女性歌手は多い。

弘田三枝子に始まり奥村チヨ、梓みちよ、小川知子、天地真理…
イメージチェンジが成功し大衆に受け入れられるケースも多いが、失墜するケースも多い。
小柳ルミ子もその一人だろう。

1970年にNHK連続テレビ小説「虹」で主人公の娘、かおる役でテレビに登場し、
翌1971年3月にそれが終了しその翌月に「わたしの城下町」で歌手デビュー。
当時の「朝ドラ」の視聴率と影響力は現在の比では無かったので、
「あ、かおるが歌っている。 おー、歌うまいじゃないか」
と思った人は恐らく、当時の日本の全人口の1/3ほどはいただろう。

筆者は当時まだ小学3年から4年になった頃だったので、「虹」のストーリーは憶えていない。
しかし「かおる」に日本人らしい、やさしい女性のイメージを持っていた事は確かであり、
全国的にも小柳にそのイメージが定着していたからこそ、
「わたしの城下町」は小柳の無垢な歌唱と楽曲が持つ日本的な情緒が広く受け入れられ、
大ヒットとなったのは間違いないだろう。

小柳自身は宝塚出身と言う経歴からも、本人の発言からもわかる通り、
デビュー当時から歌は勿論、ダンスパフォーマンスで活躍する事を望んでいた。
実際には、デビュー3年目である1973年夏のワンマンショーで早くもダンスを披露していたので、
本人としては着々とその方面でも活動する道筋を作っていたつもりであった事は想像できる。

しかし大衆は、小柳にはいつまでも日本人らしい可憐な女性である事を望んだ。
やがて小柳は欲求不満がふくらみ、機会があるごとに「可憐な女性」のイメージを壊し、
ダンサー、また大人の女優としても認められるべく活動していくのだが、
結局それは大衆には受け入れられなかった。
残ったのはこの章の冒頭の「なんであんなになっちゃったんだろう…」、だったのだ。

小柳が披露したかった芸を受け入れる場が少なかったのがその原因の一つだろうが、
それ以上に、小柳自身の顔立ち、声、所作が日本人らしい女性そのもののそれであり、
大衆に「外人かぶれしたルミ子は望んでない」と思わせたのではないだろうか。

そのあたりのバランスを考えると、宝塚出身の経歴もある小柳ルミ子には
ミュージカル女優が最も相応しかったのでは…と筆者は考えるのだが…。

大衆は移り気だから、もし小柳が別のイメージに走る事がなかったとしても、
突然飽きられてしまい、何をしても売れなくなる日が来ただろう。
しかしそうなったとしても、歌手としての小柳の実績は屈指のものであるから、
第一期に得た「大スター」の称号はいつまでも保っていたはず。

現実には結婚・離婚の騒動も含め、歌手活動以外の影響でその称号が薄れてしまったのは残念。
だがもっと残念なのは、小柳が自身が近年の著書で「私は大スターにはなれなかったが、云々」
と書いている事である。

その活躍を知っている我々のような年代の人間にとって、
小柳ルミ子は紛れもなく、大スターなのである。

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