たとえば…たとえば / 渡辺真知子
今聴くとすごく斬新です(^^)
チャートアクション
「たとえば…たとえば」は渡辺真知子さんの4枚目のシングルとして1979年1月に発売され、
オリコンシングルチャートで最高13位(同年2月19日付)、同100位内に13週ランクインされ
11.8万枚の売り上げを記録しました。
作家について
作詞は前々作「かもめが翔んだ日」と同じ伊藤アキラ氏。
「たとえたとえで たとえても たとえきれない やるせなさ」
と都々逸のような言葉遊びが印象に残りますが、
氏があの「南の国のハメハメハ大王」(NHKみんなのうた)、
♪この樹なんの樹 気になる樹♪ のフレーズで我々の世代には馴染み深い「日立の樹」
などの作者でもある事を考えると、♪たとえたとえ…♪ の歌詞も伊藤氏らしいかも…
と思えてきます。
作曲は渡辺真知子さん自身、編曲は船山基紀氏と、デビューから1980年頃までにわたり
一貫していたコンビネーションによる1曲です。
全体の構成
構成としては2ハーフ、キーはFマイナー(ヘ短調)、リズムは8ビートが基調と
ごくオーソドックスなものです。
ただしテンポは、100~120bpm程度が普通である歌謡ポップスの中で、
「たとえば…たとえば」は約140bpmとかなり速く(それでも「かもめが翔んだ日」
よりはいくらか遅いのですが)、
良く言えばスピード感がある、悪く言えば慌ただしすぎる…と評価が分かれそうです
(140bpmとは、1分間に4分音符を140回打てる速さと言う意味です)。
しかしよく聴くと、イントロでピアノとストリングスによる超速パッセージの後に
ややテンポが緩んでいるんですね。
レコーディングの速度キープがクリックによるものではなく、
アレンジャーが演奏の流れに合わせてオケを前にタクトを振り、
微妙にテンポを調節している事が伺えます。
歌メロは、
Aメロ:♪たとえば たとえば…♪
Bメロ:♪たとえば 愛している人に…♪
Cメロ:♪たとえたとえでたとえても…やるせなさ♪
と分ける事ができます。
この曲の特徴の一つに、サビがどこなのかよくわからない事が挙げられます。
インパクトが強い、曲名をそのまま表していると言う意味ではAメロがサビ、
即ち頭サビと見なすのが適当なのですが、
歌詞で最も伝えたい部分はBメロと思われれますし、
Cメロにも強い主張が感じられ…と、結局は聴く人次第との事なのでしょう。
その分、どこをとっても焦点がやや甘い、とも言えそうです。
歌メロ部の考察
イントロやコーダも含めた楽譜を作成しましたので、参考までに
(文中の小節番号は楽譜の各段先頭にある数字で判断して下さい):
(サムネイル上クリックで大きく開きます)
最初に知っておきたいのが、Aメロは2小節単位で進行するのに対し、
Bメロ~Cメロでは3小節単位で進行する事です。
この曲を含め、ごく一般的には3拍子であれ4拍子であれ、
メロディーは2小節ごと、あるいは4小節ごとに区切る事ができるのが普通で、
最も自然に聞こえる進行でもあるのですが、
「たとえば…」ではBメロに入ると突然3小節ごとの区切りとなり、
初めて聴いた時には恐らくその部分で「え?」と感じる人が多いと思われます。
(何度も聴いているうちに馴れてしまうものですが)。
ただBメロでは2拍3連が続き、リスナーによろよろと浮遊感を覚えさせるので、
そのために3小節単位の進行もさほど不自然に感じられないのかも知れません。
そしてCメロではそれまで4/4拍子で流れてきたのが ♪やるせな♪ で
これまたいきなり2/4拍子となり、次にすぐに4/4拍子に戻ります。
意識して聴いているといささかつんのめり気味、もしかしたら字数合わせでやむを得ずか…
と思わせますが、恐らくそこもインパクト重視の計算なのでしょう。
歌メロの音域は下のFから上のD♭までの1オクターブ+短6度とかなり広いのですが、
歌に説得力を持たせるために高音域も去ることながら、
低~中音域での明確な発声が重要であると思われます。
渡辺真知子さんの声域はアルトに近く、低~中音域での音質が充実していますし、
高音域では地声はB♭まで、それ以上ではファルセット頼りになるものの、
限界点でひっくり返りそうになる声が悲壮感を帯びむしろ魅力的になるのも聞き逃せないですね。
そして歌メロの動きがとても細かく、臨時記号(この曲では♭とナチュラル)が
多用されているのが特徴です。
特に30小節目(♪…つたえきれない♪)は半音単位の動きであり、
歌いこなせる自信がないと書けないと思いますし、
そこを含めア・カペラ(無伴奏)で正確に歌い通すのは至難の業でしょう。
コード進行については、歌メロでは見られないカウンターライン(この曲ではベースを
1音、または半音ずつ下降させていく動き)がイントロや間奏にありますが、
それ以外では特に変わったものは見られません。
ただコードチェンジのタイミングを意識的にずらしていると思われる箇所があります。
それはイントロが終わり歌に入る部分(14小節目)と、Cメロに入る部分(38小節目)です。
14小節目は頭からC7、38小節目は頭から F mにコードが当てられるのが通常ですが、
それぞれ1小節分、半小節分の間、前のコードを引きずってから次のコードに移っているんですね。
太田裕美さんの1977年のヒット曲「九月の雨」(作詞:松本隆、作・編曲:筒美京平)では、
2度ある ♪September (rain rain)♪ のメロディーがそれぞれ、その次の小節に使われる
コードに合う音で作られているのですが、
「たとえば…」ではその逆をやっているようなものです。
音楽としては、歌い出しの ♪たとえば~♪ は最初から C7 であっても問題ないですし、
♪たとえたとえで…♪ は最初から Fm でも全く問題ないわけですが、
そうしなかったのはインパクト重視と言うよりも、流れをより自然にしようとした
試みでは、と思われます。
ニューミュージックと呼ばれる音楽では、4和音のコードでの4番目の音、
つまり B♭7 だと♭7の音(A♭)、CM7ならばM7の音(B)をメロディーに意識的に多用したり
ロングトーンで使ったりなどして歌謡曲との違いをアピールするような作品が多いものです。
「たとえば…」でもそれはいくつかあって、Bメロ ♪たとえば~(愛している人に)♪、
♪(私だけの)人じゃないの~♪ などでそれは生かされています。
またBメロの ♪私だけの 人じゃないの♪ の中での「ひ」に当てられた音の選択、
♪たとえたとえで…♪ での隣接音・経過音の使い方等々、
この曲のメロディーはソルフェージュ(伴奏なしに楽譜を見ながら独唱する事です)の
訓練のために作られたのでは?と言いたくなるほどの難易度があります。
演奏とサウンドについて
まずイントロが始まるとその速いフレーズに驚かされますね。
約140bpmで16分音符でまくし立てるようなこの演奏はストリングスとピアノによるものですが、
ストリングスだけだとこれくらいの速い演奏はそう珍しくないし、
ピアノだけだとハノンの指練習を速く弾いているくらいのイメージしかならず、
その両方が合わさる事で独特のスピード感が発揮されているんですね。
現代では打ち込みを使えば、同じ楽器音で同じように(いや、もっと速くでも)
演奏させる事は容易いのですが、
実際にやってみると「やっぱり機械じゃん」と言う感じにしかならない場合が多いんです。
人間が演奏しているから…との前提で聴いているからとしても、
40年近く前の作品なのにこの曲の演奏を「凄い」と感じさせる何かがあるのは確かで、
それは、打ち込みでどんな演奏も実現できる、修正もいくらでもできる…
と言った環境では得られない、実力のある演奏者にしか出せない深みなのでしょう。
イントロが終わり2拍のブレークで「あれ?」と思っていると ♪たーとーえーばー♪ と
歌が始まりドカン!とティンパニが響くとさらに歌が続いていくわけですが、
しばらくはティンパニの音が頭から離れない…と言う人も多いのでは(^^)
尚、ティンパニはイントロと間奏でピアノ・ストリングスの速弾きから次のフレーズに
移る時にも派手に鳴っていますね。
歌メロに入ると、Aメロではピアノ+フルート、Bメロではストリングス→ハープシコード、
Cメロではストリングスと、ほぼ全篇にわたって楽器が変わりながら裏メロが演奏されています。
ベーシックはドラムス、ベース、左にエレキギター、右にアコギ、そしてピアノと、
鉄壁と表現したくなるような手堅い、しかしそれぞれどこか主張が感じられる演奏です。
ハーフ前の間奏で左のエレキギターがカッコいいプレイをしてます(^^)
ストリングスは左右にオーケストラ配置で広がり、ホーンセクションがその間の中央に
配置され、随所で曲の流れを引き締めています。
全体に派手な演奏の中で、ステレオ録音で左右に広がって聞こえるハープシコードが
ムードメーカーのような役割をしています。
そのサウンドはつつましいながら、BメロからCメロに移る時には大胆にダウングリスして
その存在をアピールしているかのようです。
そこだけを聴くと、キャンディーズの「なみだの季節」のイントロそっくりです(^^)
イントロのインパクトに較べてコーダがどうも地味で、どうせなら最後にもう一発
キメて欲しかった、と思うのは私だけでしょうか(^^;)
付記
「たとえば…たとえば」について、作曲家の宮川秦氏は当時朝日新聞に連載していた記事
「歌は世につれ」をまとめた著書「サウンド解剖学」にかなり辛辣な言葉を残しています。
それを抜粋すると…
「デビュー曲はインスピレーションが作らせた大傑作と感心するのですが、二作、三作と、
徐々に計算やひねくりこねくり回しが多くなり…
決定的にいけないのは『たとえば…たとえば』です。
あの早いテンポで難しい音程を歌うことに振り回され、情感はどこへやら吹っ飛び、
残ったものは真知子、勉強してます!!の姿勢のみ。
これじゃ売れるはずがない。 だんだんメロディーがしつこく、頭でっかちになってくる…」
実際には先述の通りオリコン13位まで上昇したので成績としては中ヒットでしたが、
売り上げ枚数は前作「ブルー」の1/3ほどであり、確かに失速した感はありました。
上の拙文にあれこれ書いたように、歌メロだけでも細かい計算がいくつも見られますし、
そのために普通の人にはとても歌いこなせない作品になってしまっている気もします。
しかし今、改めて聴き直すとそこかしこに冒険が感じられ、「かもめ…」の余勢を
駆っている感はあっても、それ以上の曲を作ろうとする意欲が感じられるんです。
私には情感が吹っ飛んでいるとも感じられず、主人公の気持ちの切迫感が伝わってきます。
そう感じられるのは、時代のせい、年齢のせい…かも知れませんが。
当時はニューミュージックが台頭し始めていて、作家・歌手は、
どれほどの高いレベルで作っても大衆に受け入れられるだろうか、と実験していた側面も、
きっとあると思います。
それが正しいならば、日本の音楽が健全に進歩していた時代だったと言えるのではないかな。
「たとえば…たとえば」も、渡辺真知子さんとスタッフが結束し、
音楽的レベルの高い作品を世に出そうとして出来た作品であると私は信じますし、
だから今聴いても新鮮に楽しめるのだろう、と思います(^^)
「たとえば…たとえば」
作詞 : 伊藤アキラ
作曲 : 渡辺真知子
編曲 : 船山基紀
レコード会社 : CBSソニー
レコード番号 : 06SH444
初発売 : 1979年(昭和54年)1月21日
チャートアクション
「たとえば…たとえば」は渡辺真知子さんの4枚目のシングルとして1979年1月に発売され、
オリコンシングルチャートで最高13位(同年2月19日付)、同100位内に13週ランクインされ
11.8万枚の売り上げを記録しました。
作家について
作詞は前々作「かもめが翔んだ日」と同じ伊藤アキラ氏。
「たとえたとえで たとえても たとえきれない やるせなさ」
と都々逸のような言葉遊びが印象に残りますが、
氏があの「南の国のハメハメハ大王」(NHKみんなのうた)、
♪この樹なんの樹 気になる樹♪ のフレーズで我々の世代には馴染み深い「日立の樹」
などの作者でもある事を考えると、♪たとえたとえ…♪ の歌詞も伊藤氏らしいかも…
と思えてきます。
作曲は渡辺真知子さん自身、編曲は船山基紀氏と、デビューから1980年頃までにわたり
一貫していたコンビネーションによる1曲です。
全体の構成
構成としては2ハーフ、キーはFマイナー(ヘ短調)、リズムは8ビートが基調と
ごくオーソドックスなものです。
ただしテンポは、100~120bpm程度が普通である歌謡ポップスの中で、
「たとえば…たとえば」は約140bpmとかなり速く(それでも「かもめが翔んだ日」
よりはいくらか遅いのですが)、
良く言えばスピード感がある、悪く言えば慌ただしすぎる…と評価が分かれそうです
(140bpmとは、1分間に4分音符を140回打てる速さと言う意味です)。
しかしよく聴くと、イントロでピアノとストリングスによる超速パッセージの後に
ややテンポが緩んでいるんですね。
レコーディングの速度キープがクリックによるものではなく、
アレンジャーが演奏の流れに合わせてオケを前にタクトを振り、
微妙にテンポを調節している事が伺えます。
歌メロは、
Aメロ:♪たとえば たとえば…♪
Bメロ:♪たとえば 愛している人に…♪
Cメロ:♪たとえたとえでたとえても…やるせなさ♪
と分ける事ができます。
この曲の特徴の一つに、サビがどこなのかよくわからない事が挙げられます。
インパクトが強い、曲名をそのまま表していると言う意味ではAメロがサビ、
即ち頭サビと見なすのが適当なのですが、
歌詞で最も伝えたい部分はBメロと思われれますし、
Cメロにも強い主張が感じられ…と、結局は聴く人次第との事なのでしょう。
その分、どこをとっても焦点がやや甘い、とも言えそうです。
歌メロ部の考察
イントロやコーダも含めた楽譜を作成しましたので、参考までに
(文中の小節番号は楽譜の各段先頭にある数字で判断して下さい):
(サムネイル上クリックで大きく開きます)
最初に知っておきたいのが、Aメロは2小節単位で進行するのに対し、
Bメロ~Cメロでは3小節単位で進行する事です。
この曲を含め、ごく一般的には3拍子であれ4拍子であれ、
メロディーは2小節ごと、あるいは4小節ごとに区切る事ができるのが普通で、
最も自然に聞こえる進行でもあるのですが、
「たとえば…」ではBメロに入ると突然3小節ごとの区切りとなり、
初めて聴いた時には恐らくその部分で「え?」と感じる人が多いと思われます。
(何度も聴いているうちに馴れてしまうものですが)。
ただBメロでは2拍3連が続き、リスナーによろよろと浮遊感を覚えさせるので、
そのために3小節単位の進行もさほど不自然に感じられないのかも知れません。
そしてCメロではそれまで4/4拍子で流れてきたのが ♪やるせな♪ で
これまたいきなり2/4拍子となり、次にすぐに4/4拍子に戻ります。
意識して聴いているといささかつんのめり気味、もしかしたら字数合わせでやむを得ずか…
と思わせますが、恐らくそこもインパクト重視の計算なのでしょう。
歌メロの音域は下のFから上のD♭までの1オクターブ+短6度とかなり広いのですが、
歌に説得力を持たせるために高音域も去ることながら、
低~中音域での明確な発声が重要であると思われます。
渡辺真知子さんの声域はアルトに近く、低~中音域での音質が充実していますし、
高音域では地声はB♭まで、それ以上ではファルセット頼りになるものの、
限界点でひっくり返りそうになる声が悲壮感を帯びむしろ魅力的になるのも聞き逃せないですね。
そして歌メロの動きがとても細かく、臨時記号(この曲では♭とナチュラル)が
多用されているのが特徴です。
特に30小節目(♪…つたえきれない♪)は半音単位の動きであり、
歌いこなせる自信がないと書けないと思いますし、
そこを含めア・カペラ(無伴奏)で正確に歌い通すのは至難の業でしょう。
コード進行については、歌メロでは見られないカウンターライン(この曲ではベースを
1音、または半音ずつ下降させていく動き)がイントロや間奏にありますが、
それ以外では特に変わったものは見られません。
ただコードチェンジのタイミングを意識的にずらしていると思われる箇所があります。
それはイントロが終わり歌に入る部分(14小節目)と、Cメロに入る部分(38小節目)です。
14小節目は頭からC7、38小節目は頭から F mにコードが当てられるのが通常ですが、
それぞれ1小節分、半小節分の間、前のコードを引きずってから次のコードに移っているんですね。
太田裕美さんの1977年のヒット曲「九月の雨」(作詞:松本隆、作・編曲:筒美京平)では、
2度ある ♪September (rain rain)♪ のメロディーがそれぞれ、その次の小節に使われる
コードに合う音で作られているのですが、
「たとえば…」ではその逆をやっているようなものです。
音楽としては、歌い出しの ♪たとえば~♪ は最初から C7 であっても問題ないですし、
♪たとえたとえで…♪ は最初から Fm でも全く問題ないわけですが、
そうしなかったのはインパクト重視と言うよりも、流れをより自然にしようとした
試みでは、と思われます。
ニューミュージックと呼ばれる音楽では、4和音のコードでの4番目の音、
つまり B♭7 だと♭7の音(A♭)、CM7ならばM7の音(B)をメロディーに意識的に多用したり
ロングトーンで使ったりなどして歌謡曲との違いをアピールするような作品が多いものです。
「たとえば…」でもそれはいくつかあって、Bメロ ♪たとえば~(愛している人に)♪、
♪(私だけの)人じゃないの~♪ などでそれは生かされています。
またBメロの ♪私だけの 人じゃないの♪ の中での「ひ」に当てられた音の選択、
♪たとえたとえで…♪ での隣接音・経過音の使い方等々、
この曲のメロディーはソルフェージュ(伴奏なしに楽譜を見ながら独唱する事です)の
訓練のために作られたのでは?と言いたくなるほどの難易度があります。
演奏とサウンドについて
まずイントロが始まるとその速いフレーズに驚かされますね。
約140bpmで16分音符でまくし立てるようなこの演奏はストリングスとピアノによるものですが、
ストリングスだけだとこれくらいの速い演奏はそう珍しくないし、
ピアノだけだとハノンの指練習を速く弾いているくらいのイメージしかならず、
その両方が合わさる事で独特のスピード感が発揮されているんですね。
現代では打ち込みを使えば、同じ楽器音で同じように(いや、もっと速くでも)
演奏させる事は容易いのですが、
実際にやってみると「やっぱり機械じゃん」と言う感じにしかならない場合が多いんです。
人間が演奏しているから…との前提で聴いているからとしても、
40年近く前の作品なのにこの曲の演奏を「凄い」と感じさせる何かがあるのは確かで、
それは、打ち込みでどんな演奏も実現できる、修正もいくらでもできる…
と言った環境では得られない、実力のある演奏者にしか出せない深みなのでしょう。
イントロが終わり2拍のブレークで「あれ?」と思っていると ♪たーとーえーばー♪ と
歌が始まりドカン!とティンパニが響くとさらに歌が続いていくわけですが、
しばらくはティンパニの音が頭から離れない…と言う人も多いのでは(^^)
尚、ティンパニはイントロと間奏でピアノ・ストリングスの速弾きから次のフレーズに
移る時にも派手に鳴っていますね。
歌メロに入ると、Aメロではピアノ+フルート、Bメロではストリングス→ハープシコード、
Cメロではストリングスと、ほぼ全篇にわたって楽器が変わりながら裏メロが演奏されています。
ベーシックはドラムス、ベース、左にエレキギター、右にアコギ、そしてピアノと、
鉄壁と表現したくなるような手堅い、しかしそれぞれどこか主張が感じられる演奏です。
ハーフ前の間奏で左のエレキギターがカッコいいプレイをしてます(^^)
ストリングスは左右にオーケストラ配置で広がり、ホーンセクションがその間の中央に
配置され、随所で曲の流れを引き締めています。
全体に派手な演奏の中で、ステレオ録音で左右に広がって聞こえるハープシコードが
ムードメーカーのような役割をしています。
そのサウンドはつつましいながら、BメロからCメロに移る時には大胆にダウングリスして
その存在をアピールしているかのようです。
そこだけを聴くと、キャンディーズの「なみだの季節」のイントロそっくりです(^^)
イントロのインパクトに較べてコーダがどうも地味で、どうせなら最後にもう一発
キメて欲しかった、と思うのは私だけでしょうか(^^;)
付記
「たとえば…たとえば」について、作曲家の宮川秦氏は当時朝日新聞に連載していた記事
「歌は世につれ」をまとめた著書「サウンド解剖学」にかなり辛辣な言葉を残しています。
それを抜粋すると…
「デビュー曲はインスピレーションが作らせた大傑作と感心するのですが、二作、三作と、
徐々に計算やひねくりこねくり回しが多くなり…
決定的にいけないのは『たとえば…たとえば』です。
あの早いテンポで難しい音程を歌うことに振り回され、情感はどこへやら吹っ飛び、
残ったものは真知子、勉強してます!!の姿勢のみ。
これじゃ売れるはずがない。 だんだんメロディーがしつこく、頭でっかちになってくる…」
実際には先述の通りオリコン13位まで上昇したので成績としては中ヒットでしたが、
売り上げ枚数は前作「ブルー」の1/3ほどであり、確かに失速した感はありました。
上の拙文にあれこれ書いたように、歌メロだけでも細かい計算がいくつも見られますし、
そのために普通の人にはとても歌いこなせない作品になってしまっている気もします。
しかし今、改めて聴き直すとそこかしこに冒険が感じられ、「かもめ…」の余勢を
駆っている感はあっても、それ以上の曲を作ろうとする意欲が感じられるんです。
私には情感が吹っ飛んでいるとも感じられず、主人公の気持ちの切迫感が伝わってきます。
そう感じられるのは、時代のせい、年齢のせい…かも知れませんが。
当時はニューミュージックが台頭し始めていて、作家・歌手は、
どれほどの高いレベルで作っても大衆に受け入れられるだろうか、と実験していた側面も、
きっとあると思います。
それが正しいならば、日本の音楽が健全に進歩していた時代だったと言えるのではないかな。
「たとえば…たとえば」も、渡辺真知子さんとスタッフが結束し、
音楽的レベルの高い作品を世に出そうとして出来た作品であると私は信じますし、
だから今聴いても新鮮に楽しめるのだろう、と思います(^^)
「たとえば…たとえば」
作詞 : 伊藤アキラ
作曲 : 渡辺真知子
編曲 : 船山基紀
レコード会社 : CBSソニー
レコード番号 : 06SH444
初発売 : 1979年(昭和54年)1月21日
2017-07-30 22:51
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いやー、ぽぽんたさんが「面白い」と言われるだけあって、この曲だけでご飯三杯、じゃない、更新三週間分くらいは語れますねー。
これだけネタが満載だと確かに記事にまとめるのが大変であった事も想像に難くなく、更新が延びたのもむべなるかなと納得です。ぽぽんたさんお疲れさまでした。コメントする方も語りたい所が山ほどあって絞り切れないので、まずは読者の皆様がどなたでも参加できる歌詞周りについて書いてみますね。
この時期の制作エピソードを探しても渡辺真知子さんの曲作りは詞先(伊藤アキラ氏の詞に曲を付けた)と言う記事しかみつからず、ご本人も「この言葉にはこのメロディが一番良いと思って作っているので、途中で詞を変えられるのはとても困る」と発言されていたりするので、本作品も詞先と考えられます。
しかし。
冒頭からいきなり「たとえば」を4回繰り返す詞とか、普通は書けません。詞先であれば何らかの効果を期待するにしてもせいぜい2回。3回重ねる段階で相当の勇気が必要です。そうじゃありませんか?White Autumn さん(と、突然呼んでみたりして・笑
私の仮説として最も有力なのは、原稿用紙にはタイトル通り「たとえば…たとえば」としか書かれていなかった、つまり伊藤氏は「2回」を想定して作詞したけれども、渡辺さんが作曲するに当たって4回にした、と言う考えです。
と言うのは、「たとえば~」の後の歌詞が、
教えてよ 理由
気になるの 影
どうすれば 罪
と3行しか無いので、普通に1行2小節程度で作曲して行く時に切り良く4の倍数で収めるには(この「普通」もこの曲では裏切りまくっているわけですが・笑)最初の1行が「たとえば たとえば」であったと考えるのが妥当と思われるからです。
ただ、ぽぽんたさんが C メロとした最後のフレーズが、1番とハーフの部分で
たとえ たとえで たとえても たとえきれない やるせなさ
と4つの「たとえ」を含んでいるので、それと呼応させる形で冒頭にも「たとえば」を4つ並べた可能性もワンチャンあります。しかし・・・そこまで書いてしまったら、普通の感覚では B メロ頭に「たとえば」を持って来るのは自重しちゃうと思うんですよね。(´・ω・`)
これは是非、船山先生にぽぽんたさんから確認して頂きたい所かも知れません。
と言う訳で、経緯は不明ながらとにかく最初から最後まで「たとえば」を連呼する曲となっているわけですが、ここで注目して頂きたいのは「たとえば」と言う歌詞に付けられたメロディです。お気づきでしょうか。普通に「たとえば」と喋る時のイントネーション(た↑と↓え↓ば)の通りに上下するメロディラインとなっています。
日本の古い歌はこのようにメロディが言葉のアクセントと一致してこそ美しいと言う観点で作られていました。フォークソングやロカビリー、量産型アイドルソングで「作詞家はそこまで気にしなくて良い」と言う風潮が広まったものの、'70年代頃まではそうした感覚で作詞される先生も多く、詞先の場合にそれをどう処理するかは作曲者の裁量に委ねられていたわけです。
それだけ気を遣って作られたメロディであるからこそ、曲の冒頭に「なんじゃこりゃ!」と言う長さ、2小節半にも渡って朗々と「た~と~え~ば~」と歌いあげても歌詞の説得力が薄まらないのだとも言えます。
また、この一音一音を2分音符と言う長い音で歌う手法は、実は元のメロディが音価が半分の4分音符だったり、更にそのまた半分の8分音符で、弱起として書かれた曲において「1コーラス目の頭だけ」とか「2ハーフのハーフの頭だけ」(KinKi Kids「硝子の少年」の「Stay with me~♪」の部分みたいな感じです)、そこだけ小節数を増やして挿入すると言うパターンが一般的です。
本曲で言うと、25小節目の Fm の後半を C7 に置き換えて4分音符か8分音符で「たとえ」と弱起の形で挟み込んで16小節目の頭に戻す、要するに A メロ→A'メロ なんて言う作り方が作曲における「古典定石」の一つだったりするわけです(それでも既に2小節ほど半端が出てしまいますが)。
まあ、ここでは与えられた歌詞がそういう形になっていません。
そう。そうなっていないのに、あたかも「これって元メロを伸ばしてるんだよな」と思わせるような曲作りをした事で、リスナーの小節カウント感覚を惑わし、コードが変わるタイミングにも目眩ましを掛ける仕掛けや伏線になっています。
恐るべし、渡辺真知子。
歌詞の方に話を戻すと、シチュエーション的には渡辺真知子自身の作詞による前作「ブルー」の状況を踏襲しており、男性の思いが「終わった恋」から「手が届かない恋」に変わっただけで、ここでも主人公は「二軍で控え」です。
専業作詞家らしく A メロ後半などは「ブルー」のように散文的になる事を避けて「詩的」に美しい形式で言葉が選ばれています。B メロも注意深く作られてはいるのですが、率直に聴いてメロディの勢いの陰に埋もれてしまった感は否めません。
当時、宮川先生が苦言を呈した理由の一つとして、「詞に対して曲が強すぎる」と言う事があったのかも知れないと思います。「歌」なのだからもっと「言葉」を大切に扱え、的な意味で。これは本当に当時の音楽の中で聴き比べない事には、現在のような鋭利なキーワード満載の歌詞とド派手な曲の組み合わせに慣らされた耳には「このくらい普通じゃね?」と聴こえてしまうと思います。
ちなみに A メロ後半、2番では
どこまでが 嘘
どこからが 愛
どうすれば いい
なんですが、この部分だけを1番と比べると、なんだか3行目は入れ替えた方がしっくり来るように見えたりもします(「教えて→気になる→どうすれば良い」と「嘘→愛→罪」がそれぞれ綺麗なコンボとして決まりそう)。
伊藤氏もたぶん一瞬は考えたと思いますが、ここは B メロの歌詞で語りたい事の予告編部分でもあるので、計算に基づいて現在の構成に落ち着いたものと思われます。
詞の世界観は「ブルー」、曲調は「かもめが翔んだ日」ではありますが、ぽぽんたさんが指摘されている伊藤氏独特の言葉遊び的な部分は「迷い道」の中で使われている「言葉とメロディを組紐細工のように絡め合わせて落とし込む」手法に強くインスパイアされたのではないかと感じます。
詞についてもまだまだ書きたいのですが先が長いのでここまでで一旦筆を置きます。
どこまで出来るか分かりませんが、今後は、
・ベースラインとビート感やテンポの揺らぎ
・B メロにおける小節カウント感覚
・かなりロックしてるね、ベイベ☆ ~ アレンジ雑感
みたいな事を書けたら良いなと思っています。
力尽きちゃったらごめんなさい(苦笑
_
by もっふん (2017-08-01 05:14)
もっふんさん、こんばんは!
もう、私の記事の補足以上の補足、それも私が考察が足りなくてあまり記述できなかった
歌詞についてまで詳しく解説して下さって、お礼の言葉も見つかりません。
歌詞について私が面白いと思ったもう一つの点は、2コーラス目のBメロ以降で、
私(この曲の主人公のことです)と同じような人があなた(これはリスナーを
指しているのでせうか)の近くにいても変に同情しないで、かえって傷つくわよ…と、
いきなり自分の感情を不特定な第三者に転嫁してしまっている事で、
他にはなかなか耳にしない手法だな、と思っていました。
それは取りも直さず「私はそれほど傷ついている」アピールなのでしょうが、
もしかするとそのようなテクニックがリスナーには重かったのかな、
と考えたりもします。
た・と・え・ばのイントネーション、気づきませんでした!
仰る通りですね。 大昔、服部良一氏が「一杯のコーヒーから」(歌:霧島昇)を
作曲してヒットした時、「コーヒー」のアクセントが「コ」にあるために
関西弁に聞こえてしまい気になる…と語ったとされるエピソードを思い出しました。
そういった事って、特に現代ではまるで無視されている気がするのですが、
そのあたりをもっと大切に作れば芸術性も高まると思いますし、
聴いていて自然に歌詞の意味がつかめるはずですね。
それを逆手に取って新味を出すテクニックももう使い尽くされている気がしますので、
そろそろ変わっていくかも知れない、と思います。
また細かい部分にこだわってしまいそうなので、今は自重します(^^;)
では、第二回、お待ちしてます(^^)
by ぽぽんた (2017-08-01 23:47)
【予定を変更して歌詞について補足コメントです】
★イントネーションなどのお作法★
メロディは歌詞の抑揚と一致すべきである、と言うのは、今を遡る事 ン十年も前に当時の音楽の先生が「荒城の月」を例に引いて教えてくれた事なのですが、これ、実は作詞者にとっては鬼のような苦行を強いるんですよ。
苦労してワンコーラス分の歌詞を仕上げた後に、それと同じ抑揚で歌える2番やら追加ハーフ分のサビの歌詞を考える、と言うのは気が遠くなるほど難しい事です。ましてや表現したい情景や心象風景が決まっている場合、まさに「苦行」と呼ぶのがふさわしくなります。
で、どうなるかと言うと、これはぽぽんたさんには別の機会に紹介した動画ですが、
http://www.nicovideo.jp/watch/sm30279244
この曲においては歌詞の都合に合わせて1番と2番で2か所メロディが変わってしまっています。逆に、そうなっていると言う事は、この曲が「詞先」で作られていると言う証拠でもあります。厳密に言えば「反則」の部類でしょうが、作詞作曲を一人でやっているならこう言う事にもなるわけです。
って、ぽぽんたさんが笑ってるように思うのは気のせいかしら? (´・ω・`) ?
そういう「昔ながらのお作法」を完全に破壊していながらヒットした事でその後の作詞作曲の流れを変えてしまったのが、吉田拓郎の「旅の宿」かも知れません。
熱燗徳利の首 つまんで
の部分が「熱燗と」、「くりの首」にしか聞こえない、と、当時の大人達は日本語の崩壊を嘆いたものですが、今となっては普通の楽曲でもどこかしらに言葉のリズムを崩したギミック(一拍程度の唐突な早口フレーズとか)を織り交ぜる傾向にありますし、ラップやヒップ・ホップは歌詞がリズム通りお行儀良く並んでいたら成立しないジャンルでもあります。
お作法やセオリーが重用されるのにはそれなりの理由がありますが、敢えてそれを壊す事もまた、新しい表現を試みる時の普遍的なアプローチなのだと思います。
★「やさしさ」が罪になる時★
B メロ、気が付いちゃいましたか。長くなるからスルーする方向だったんですが(笑
確かに有名どころの J-POP で同じ設定を挙げろと言われても、私の記憶力と脳内検索能力が貧弱なせいですぐには思い浮かばないのですが、少年マンガや少女マンガの世界(つまり男女どちらの立場からでも)では「お約束のパターン」の一つなんですよね。
主人公(友達がいなかったりいじめられっ子であると言う設定が多い)が密かに憧れているのは、明るくてみんなの人気者。こんな詰まらない自分にも優しく声を掛けてくれた。でも勘違いしちゃダメだ。あの人は誰にだってやさしいんだから・・・。
だから、もうこれ以上やさしくしないで!期待してしまうから!
・・・と言うマンガ原稿を持ち込んだら、間違いなくその場でボツでしょう。(´・ω・`)
そういう女心だったら中島みゆきが数十曲は書いていると思われます。
「やさしさ」や「恋愛フェロモン」と言うのは、自分「だけ」に向けられた時に初めて幸せに感じるものであって、「その他大勢」に振りまいてしまうのは時として非常に罪作りなわけです。「罪なオトコ」「罪なオンナ」の一つの典型かも知れません。
さらに音楽的な引き出しの狭さがバレるのを厭わずに、一脈通じる事例を挙げるならば、さだまさしの「檸檬」でしょうか。
捨て去る時には こうして出来るだけ
遠くへ投げ上げるものよ
女性は「振るなら振るで、良い人ぶってウジウジしていないできっぱりと振ってくれ」と言っているのです。一方で男性は最後まで「良い人」でありたいとやさしく振舞ってしまう。「泣いた赤鬼」の青鬼のように、相手のために自分が悪役になる勇気が持てない。それは「やさしさ」ではないのだけれど。自分が可愛いだけですよね。
ここらまで突っ込んで来ると本曲がドロドロに見えて来るのではないでしょうか。
★「たとえば…たとえば」の B メロ★
ぽぽんたさんが解釈されたように「あなた=リスナー」であった場合、「こんな辛い思いをするのは私一人で充分だから」と言う血の涙を流すようなメッセージが切々と伝わって来ます。
もう少し若い設定であるがゆえに甘めですが、「ちっぽけな感傷」(山口百恵)の
泣くのはどちらか一人で良いわ
と言う一節が頭をよぎった方もおられるかも知れません。
ですが、本曲の最後のハーフ部分ではこうも歌われています。
あなたの愛に身を任せて 自分自身確かめたい
あれ?この「あなた」って誰?
主人公の思い人は1番で歌われる「彼」であって「あなた」ではないでしょう?
そもそも、そういう理解でこの詞を解釈するのであれば、何故この曲のタイトルが「たとえば」なんでしょう。「たくさんの事があるけど、たとえば」、なのであれば、「たとえ たとえで たとえても たとえ切れない」と歌っている「たとえたかった物」とはいったい何なんでしょうか。
「たとえる」事しか出来なかった、その何か・・・。受け取り方は人それぞれで良いと思いますが、このあと「私の考える」本曲の世界を書いてみたいと思います。
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by もっふん (2017-08-02 03:33)
★本当は怖い「たとえば…たとえば」★
「お、どうしたの?元気無いね」
「ん。ちょっと聞いてくれるかなあ」
「悩みごとの相談ならお兄さんはいつでも乗るよ。まっかせなさーい」
「ありがとう。じゃあね、たとえば、だけど、好きな人にその思いを伝えられない状況って言うのは、どうするべきかな?」
「なーんだ、恋の悩み?好きなら当たって砕ければ良いじゃん」
「だから、たとえば、だって。理由は分からないけど、その彼はどうも別の誰かを好きみたい、そういう影を感じる、って言うような込み入った場合」
「うーん、女の直感ってやつか。難しいところだねえ」
「もし、それが確定なのに、それでも振り向いて貰おうとするのは罪な事になるのかなあ」
「それは相手の男が決める事なんじゃないの?君ならどんな男でもイチコロだと思うけどね。ははっ☆」
「あなたも誰彼かまわずやたらと優しくし過ぎない方が良いわよ」
「藪から棒に、何さ?」
「たとえば、目の前に悩んでる人がいると放っておけないでしょ。まあ、そういう所は嫌いじゃないけど」
「いやだって、少しでも自分が力になれるならなってあげたいじゃん」
「最後まで面倒見る覚悟がなくて途中で放り出したら、それまでしてあげた事が全部ウソになっちゃうのよ」
「そんなものなのか・・・」
「まあ、きっちり付き合えれば、それは愛、って言うか、本物の優しさだと思うけどね」
「オレ、その辺は鈍感かも知れないなあ」
「そうかもね。中途半端な世話焼きは却って毒になるから気を付けなさいよ」
「溜息なんかついちゃって。考え事?」
「ちょっとね。たとえば、恋に臆病になって何もしないよりは、それが結果的に振られる恋愛でも、した方が良いのかなー、みたいな?」
「実際にやってみないと分からない事はたくさんあると思うよ」
「そうね。やってみて確かめるものよね。なんでも。それが出来る物なら・・・」
「出来ないの?」
「うーん、たとえば・・・。まあ、いいわ。たとえようの無い事だから」
「そっか。まあ、頑張れよ。ちょっと人を待たせてるんで。じゃあな」
「じゃあね。・・・はぁ、やるせないわ」
※文章はイメージです
※個人の妄想であって何かを保証するものではありません
お粗末さまでした (´・ω・`)
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by もっふん (2017-08-02 04:47)
「補足の補足」をして、そろそろ次の話題に移る準備をしたいと思います(笑
歌詞のキーワード回収を優先したので、タメ口で語り合う雰囲気もへったくれもない会話になってしまいましたが、私の想像した主人公と「彼」や「あなた」との関係性を汲み取って頂ければ幸いです。
「A メロ後半は B メロの予告編」と書いたのはこういう解釈だったからです。
詰まる所、私は C パートを「たとえ話を尽くしても 分かって貰えぬやるせなさ」と読み替えたと言う事です。
「B メロも注意深く作られている」とした一例を挙げるならば、例えば次の一節。
彼には恋しい人がいる
「恋しい」と言う表現で留め置く事で主人公の気持ちが一部正当化されます。これが「愛しい」や「愛する」だと最初から略奪愛になってしまいますし、「大事な」に至ると「相手は家族持ち=不倫」と言う所まで想起させてしまう可能性が生じます。たった4文字で曲全体の意味が変わってしまうのが恐い所です。一方で、
私だけの人じゃないの
と言うのは「独占出来ていない」、裏返すと「一部は貰っている」と読めます。
それが「やさしい言葉」であり「毒になるほほえみ」であり「酔わせるような甘い言葉」なのではないでしょうか。それが自分だけのものでは無いから虚しくなる。
最後の「たとえば」では、「それでも良いんじゃないか。このまま突き進んでどうなるか確かめるのも」と考えます。それが簡単な決断で無い事は誰が聞いても明らかです。
かくして主人公は「やるせない」気持ちを抱えたまま歌が終わって行くのだ、と私は読みました。
※別件ですが、最初のコメントで「硝子の少年」を例に挙げた部分は「ルビーの指輪」と言う、もっと分かり易い事例がありましたね。
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by もっふん (2017-08-02 19:41)
もっふんさん、こんばんは! いつもお返事が遅く申し訳ありません。
今回も、最後まで楽しく読ませて頂きました。 いつもの事ながら、解釈が深いですね。
私ももっふんさんほど読解力、想像力があれば曲の解釈がもっと柔軟になって、
別角度から楽しめるのにな…と思います。
今回も書いて下さった事を頭に置いて聴いてみますね。
きっと味わいが変わってくるかな。
イントネーションについては、私はいつも気づくと無意識に考えている(?)と言うか、
時々すごく大きく反応してしまう事があります。
現在は東京弁がほぼ標準語と言う事になっていますし、私自身が東京のど真ん中出身
なので、自分が馴染んてきたイントネーションと違うものを耳にすると
すぐに違和感を覚えてしまうんです。
また、これが正しいんだよ!と人から言われたり書物を読んだりしても
自分では納得できない事もよくあります。
わかりやすい例では「熊」でしょうか。
特にここ数年、ひどく耳触りに感じてしまうんです、テレビやラジオで
アナウンサーなどが使うイントネーション(というかアクセント、かな)。
私の中では「熊」はトップアクセントであり、現行のものは私にしてみれば
目の下にある「隈」でしかなくて。
宇多田ヒカルさんの「ぼくはくま」もトップアクセントで書かれていますし、
子供の頃からそれが正しい(と言う意識さえ無かったですが)と思い込んでました。
多分、東京弁でも同じだと思います。
「くま」一つでそれほど抵抗を感じるワタシのような人がいるほどですから、
歌詞となると作者が思う以上に、色々と気になる人が多いのでは、と思いますし、
もっふんさんが冒頭で仰っていたように、意識し始めるとキリのない、
苦行を強いられる事もあるのだろうな、と確かに思います。
過去のヒット曲にはそれを逆手に取ってヒットした作品も数多くありますが、
芸術性を高めるにはやはり、旋律とイントネーションは合っている方が良いし
憶えられやすい、と言う事もあるかも知れません。
近いうち、また歌詞をつけて頂きたい曲がありますので、良かったら…。
by ぽぽんた (2017-08-05 23:53)
★くま★
最近の局アナの日本語レベルが低下している事に異論は無く、私もかなりのジジイですからニュース一本見終えるまでに数回は苦虫噛み潰して突っ込んだりしています。
一方、NHK では「アクセント辞典」なるものを発行しているようでして、その中では「熊」は「後アクセント」と規定されているようです。ただ、放送業務の場合は状況によってアクセントがコロコロ変わる事が望ましくないので一本化せざるを得ませんが、日常会話レベルでは「まだまだ揺れている単語」の一つだと思います。(歴史的には後ろアクセントの方が古いようですが)
私はこう言う場合は国語辞典、中でも三省堂の新明解国語辞典のアクセント表記を見るようにしています。それによれば第一選択肢は後ろアクセントであるものの、前アクセントでも一向に差し支えない(少なくとも現時点では)と言う事が分かります。こうしたアクセントは前後に別の単語が付いて合成語になると変わりますし、文脈の中で「熊が」「熊としては」などと続けるときに、続く音節を下げるのか下げないのかなども「新明解」では記述されています。
想像するに「足柄山の金太郎」が「↑く↓まに」またがってしまった記憶が前アクセントの根源ではないかと思います。他にも、前アクセントが残っているのには平安以降の宗教的聖地「吉野熊野」が「↑く↓まの」である事も関係するかも知れません。
「森のくまさん」のタイトルは「↑く↓まさん」と呼びならわしている人が多いように思いますが、歌の中では「あら↓く↑まさん、有難う」となっています。「くまのプーさん」は「↓く↑まの」ですね。
「妖怪熊男~!」は「↓く↑ま↑お↓と↓こ~」となるでしょうし、子供に童話を読み聞かせる時に「そこに熊のような大男が現れました」と言う一文があったら「↓く↑まのような」と読んだ方がおどろおどろしい雰囲気を醸し出せます。
しかし一方で宇多田ヒカル「ぼくはくま」を歌として特に違和感無く聴くことが出来ると言う現実が、まだこの言葉については「現在まだ揺れていて」「どちらでも任意に使用できる」と言う事の表れなのでしょう。
言葉と言うのはどうしても時代の影響で変わって行くものですが、たとえば
突然ケイコからメール 「彼氏に振られた」とたった一言
こういう詞があった時には「↑か↓れ↓し」と「↓か↑れ↑し」のどちらでメロディを作るかで主人公の脳内文化や交友関係が想起出来てしまうので、全体を俯瞰した上で最適な選択をしなけらばならないというデリケートな部分はあります。
作詞作曲においては、厳密に抑揚を合わせなければいけない単語と、メロディの勢いに任せて多少イントネーションがおかしくても気にならない部分と言うのもあるので、そこら辺は作る人間のバランス感覚なんでしょうね。
私は通常詞先で歌を作りますが、曲が先にあると「無茶な単語を乗せようとしても自分の本能が拒否する」ので、制約が難しいのと引き換えに日本語として破綻した歌詞を書いてしまう危険性は低減できるので、これは痛し痒しと言ったところです。
「月の光」に詞を付けたいと言っておいてそのまま(半分くらいは書きましたが)になってはいますが、新曲が披露されるのであれば是非そちらもチャレンジしたいですね。このブログでは読者の皆さんの作詞能力レベルが高いので、私ならではの世界を描けるかどうかは分かりませんが、楽しみにお待ちしています。
※本当はベースについてコメントしたいのですが、「たんぽぽ/太田裕美」へのコメントでも明らかなように、音のニュアンスを文字ベースで語る事に困難を極めておりまして、ひょっとしたら「小節カウント感覚」の方が先になるかも知れません。
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by もっふん (2017-08-06 05:02)
ぽぽんたさん、こんにちは。お邪魔します。
このイントロクイズ、全然わかりませんでした。
渡辺真知子さんの歌は小学6年生のときにラジオで聴いて好きになりました。今思い返せば、インパクト強かったのはデビューからの3曲で、「たとえば…たとえば」は聴き込んでなかったです。ようつべで聴いて「ああ、こんなイントロだったかな」と。
宮川泰先生のおっしゃることはわかります。大ヒットをめざすなら、このままではちょっとね、ということだったかなと思います。
ただ、今は個性的な歌に乏しいし、ますます歌いにくく聴きにくいので、「先生のおっしゃることは、そうでもないですよ」と思えます。
サザンの「勝手にシンドバッド」のどこが聴きにくいのかな…と。
作詞の伊藤アキラ先生といえば、息子の十八番「はたらくくるま」。
それとインパクト強いフレーズの「モノレールのうた」の方でもあります。
♪君も乗れーる 僕モノレール 君も乗れーる 僕モノレール♪
by もとまろ (2017-08-06 16:19)
もっふんさん、こんばんは!
私も、特に民放(NHKも決して看過はできませんが)の局アナが登場する番組を観ていると、
時々「何じゃそりゃ~」と思わせるものがあって、実際聞いていて疲れます(^^;)
特に「ショップ」などをアクセントなしにシラッと読まれると「テレビ局が率先して
そんな読み方を啓蒙してどうするんだよ」と電話をかけたくなります。
それにしてももっふんさん、辞書でアクセントを確認されているとは頭が下がります。
私は前回も書いたように、完全に東京弁を基準に判断しているので、実際誤りがある
かも知れませんので、あまり大きな事は言えません(^^;)
ただ、これはアクセントやイントネーションとはまた違う事ですが、例えば「メイン」
を強引に「メーン」に変えようとしている傾向がテレビなどで見られますが、
長年普通に使われてきた語を一律化しようとする動きには猛然と反発を覚えます。
「くま」のアクセントについても、それと無縁では無い気もするのです。
勿論、読み方やアクセント、イントネーションなど、時代の影響などで変化するのも
わかるのですが、一部の人間が公共電波を利用して自分たちの思い通りに変えようと
するのは傲慢でしかなく、絶対に従いたくないと思ってしまうんです。
私はメロディーは浮かんでも歌詞は全く浮かんでこないので、自作の曲は100%曲先、
と言うか曲しかないんですよね。
「岩崎宏美風」「太田裕美風」「沢田研二風」とイメージしているとうまく曲が浮かぶ
事もあるのですが、それも歌詞はなくて節回しと音域だけを参考にしている感じで…。
なので、詞が書ける事は実に素晴らしいと思います。
本当に、書き方を教わりたいくらいです。
ブログとか日記などでは、書きたい事がどんどん出てくるのですが…。
「月あかり」は同じメロディーの繰り返しなので、歌詞を付けるのは大変ではないですか?
あの音自体も、実は本チャンではなくて仮のものなんです。
スコアもなく、思いついたまま音を入れていったものなので、完成度は低いのですが、
これってキチッと書いて作るとかえって面白くないかな?と感じたもので、
そのまま聴いて頂いてます。
これから秋になると結構いい感じに聴こえる気がするので、良かったら歌詞、よろしくです(^^)
by ぽぽんた (2017-08-07 23:37)
もとまろさん、こんばんは!
そうですね、やはり渡辺真知子さんは最初の3曲があまりに強くて、
それ以後は「唇よ、熱く君を語れ」が盛り返したほかはヒットと呼べる成績を
残していないんですね。
「たとえば…たとえば」に関しては、ヒットに至らなかった一つの理由が
「年明け効果」もあるのでは、と思っています。
昨年大ヒットを連発していたのに年が明けた途端に人気がガタ落ちする、
そんなパターンが確かに存在していて、渡辺真知子さんもそれにはまって
しまったような、今振り返るとそんな気がしています。
しかし記事に書いたように音楽としては分析しきれないほど面白い1曲ですし、
今の時代にもう一度注目されて欲しい気持ちを込めて記事を書きました。
伊藤アキラさんはユニークな作詞家ですね。
私は他にも、「みんなのうた」で披露された「ふたりは80才」が、
実にほのぼのしていて、しかしどこかセンチメンタルで大好きなんです。
今は年を取ってしまった誰もが若い時代が確実にあった、そんな当たり前の事を
心にしみるかたちで表現してくれているんですね。
シンガーソングライターも素晴らしいですが、やはり職業作詞家でなければ
書けない世界って確かにあるな、と思います。
by ぽぽんた (2017-08-07 23:48)
【ちょっとサボって雑談】
>もとまろさん、ぽぽんたさん
私は伊藤アキラ先生と言うと「松本ちえこの『恋人試験』の人」と言うイメージでした。古くは、今でも多くの歌手やリスナーに愛されて取り上げられる事が多いフォーリーブスの「ブルドッグ」(私も大好きです)など、いずれにせよ「キワモノすれすれ」が巧い、いや、むしろキワモノや子供向けの歌を書かせた方が巧い方だと思っていたので、むしろ本曲や「かもめが翔んだ日」のような普通の正統派のお仕事の方をレアに感じてしまいます。
実はそういう子供向けやコミカルな歌詞、企画に忠実な(自己主張のない)CMソングなどを作るのはとても難しくて、アーチスト気取りでカッコイイ言葉を探して並べ立てる方が遥かにラクなんですよね(あの阿久悠氏がどんな顔をして「ピンポンパン体操」を作詞されたのか今でも想像が出来ません。いや、あんなお顔であられたとは思うのですが・爆)。「キワモノを作るのが芸風」と言っても良い作家である秋元康氏をして「伊藤アキラこそ筋金入りの作詞家」と言わしめただけの事はあると思います。
「年明け効果」が起きていた一つの原因は、年末に有線大賞、レコード大賞、歌謡大賞、紅白歌合戦と、「最新シングルではない曲」をガンガン露出する当時の習慣にも原因があったかも知れませんね。渡辺真知子さんで言えば8月発売の「ブルー」が最新なのに年末には4月発売だった「かもめ」ばかりを歌わされて、年が明けた1月に本曲をリリースするまで5カ月間のシングル空白。これはアイドルに対して専任スタッフが3か月サイクルで新曲を提供していた当時からすると、とてつもなく長いブランク(それこそ「過去の人」と思われるほど)です。
まあ、ただのリスナーだった(今もですが)私もそれが年中行事として当たり前だと思っていたので、「喝采」(ちあきなおみ)が9月に発売されてそのままたった3ヵ月で大賞を受賞した(最短記録だそうです)時などは、驚いたを通り越して「大賞レースを利用したプロモーションかよ」と感じたりもしていました。
また、日本人は新年を区切りとしてとても大事にしていて、数え年は正月基準ですし、下着やハブラシを新しい物に替えたり(これは余り関係無いか・笑)、殺伐とした現在では考えられないほどゆっくりと丁寧に年越しをすると同時に、それは「今年」だった一年を「去年」と言う過去に変えてしまう一連の儀式でもありました。そう言った精神性みたいなものも関係しているかも知れません。
その辺の事情に対する自覚や危機感があったからこそ、本曲を宮川先生に「やり過ぎ」と言われるほど「仕掛け盛り盛り」にしてインパクトを強くしようとしたのではないかと考えたりもします。
>ぽぽんたさん
私が辞書を引くのは殊勝な事、ではなくて、実は父母共に大阪出身で一族郎党みな関西と言う家でして、私自身は首都圏で生まれ育ったものの、たまにやっぱり怪しい時があるんですよ(苦笑)。小学生の時に「東京ではそんな発音しねーよ(笑)」と言うスピーチを全校生徒の前でやらかして会場の失笑を買ったと言うトラウマがありまして(^o^;
その後精進して、社会に出てからは文章を書いたり人前で喋る仕事もしていたので、基本的に今の自分の日本語力や言語感覚にはそこそこの自信があるんですが、たまに「ん?」と思った時はつい辞書で確認しちゃうんですよね(苦笑
逆に言うと、ぽぽんたさんと同様に「テレビには騙されないぞ、国語学者が活字にしたものしか信用しないし、最後は自分の感性を信じる」とも思っているわけです。
「メイン」と「メーン」のような表記まで絡む問題も、基本的にマスコミの思惑ではなくて、自分が伝達しようとする相手がどう受け止めるかを考えます。「イルミネーション」を「イルミネイション」と表記すると、少なくとも現在では「ちょっとレトロを気取っている」ように読めるとか、そう言う「受け手の感覚」が変わってしまったと判断したらその感覚に合わせた単語や表記を選ぶことでしょう。
昔は「きんにっせい」と読んでいた金日成を「キムイルソン」と読む一方で習近平は「シージンピン」とは読まないとか、科学技術分野では最後の長音は省いて表記する(コンピュータ、エネルギなど)とか、細かいルールの揺らぎを気にし始めるとキリが無いのですが、「受け手がどう感じるかを考えて、自分で判断して使い分ける」と言う姿勢は貫きたいですね。
少しだけ本題に戻って「メロディはどの程度イントネーションに忠実であるべきか」を考える時に、渡辺真知子さんの作品は一つの良い目安になるでしょう。パッと聴いた感じで7割くらいは歌詞のアクセント通り、他に聞き違えようが無くてキーワードでもない部分はメロディ優先、たぶん、現在の J-POP シーンでこれ以上詞に追従したメロディを作る事は現実的ではない(それにふさわしい詞作も含めて)と言う一つの「限界」と見て良いように思います。
また、言わずもがなかも知れませんが、先に書いた「本当は怖い」は、本当に私個人の、しかもかなり極端な解釈の一つでしかありません。むしろ、最初はリスナーに向けて「彼」と言う表現でぽつりぽつり愚痴っていたのが、感情が昂ぶるにつれてその場にはいない「あなた」に言葉が向いて行ってしまった、と読む方が素直であるとも思います。
映画や演劇を例に取れば、原作者と監督と脚本家の意図は必ずしも同じではないですし、いろいろな注文を付けられてもなお、役者個人の解釈で感情移入の仕方や表現が左右される余地があり、それを見た観客は観客で各人それぞれの勝手な受け止め方をするわけです。
音楽においても同様で、後日譚として制作者が「世間ではこう思われてるけど、実は・・・」と言う事も良くありますし、視聴者やリスナーがその時に抱えている問題や立てているアンテナで「どこにどう響くか」は変わるものだと思っています。
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by もっふん (2017-08-10 06:40)
【月明かり】
連投すみません。
「月明かり」、メロディの繰り返しはさほどでもないのですが、B メロの美味しい部分が半分間奏になっていて欲求不満を感じるとか、A1メロの最後が音域的に一番盛り上がっちゃうとか言う部分の処理には苦労していました(苦笑
何よりも、「晩秋」の後に発表された曲にも関わらずメジャー三連で転調含みなので、ちょうど本曲を制作されていた時期とおぼしき「晩夏」(秋らしい透き通った月の光よりも、ちょっと微熱を感じさせるようなファナチックな雰囲気)のイメージが払拭できないのが一番しんどいです。
私が職業作詞家で9月リリースが決定なら石にかじりついてでも秋の歌にしなければイカンとは分かっているのですが・・・。
もしかしたら譜割や構成をいじった挙句に「9月とは言えまだまだ暑さの残るお盆前」と言う設定でで詞作してしまうかも知れません。
そうなってしまった時は「こういうメロディ解釈もあるのね」と、寛容に受け止めて頂けると有り難いです、
作詞のとっかかりは、水谷公生さんが書かれているように「なんかそれっぽいフレーズを出鱈目に歌いながら、後で直せば良い」と言うやり方もあって、井上陽水なんかはそうらしいですね。
PUFFY「アジアの純真」とか意味不明の言葉の羅列ですが、あれはデタラメの仮歌でデモテープを作ったら、「意外とこの歌詞で面白いんじゃないか」と言う話になってあの形になったとも聞いています。
でも、ぽぽんたさんが完成度の高い歌詞でイメージを提示してしまうと、私のような者の「作詞ごっこ」はやりにくくなってしまうかなあ(´・ω・`)
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by もっふん (2017-08-10 07:43)
単純な書き間違いの訂正をば
×お盆前(9月だっつーの!)
↓
〇お彼岸前
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by もっふん (2017-08-10 07:59)
【小節のカウント感覚】
一般的には小節も拍数も4の倍数である時が落ち着くわけで、そうなっていない曲と言うのは何らかの効果を狙って仕掛けている場合が多いわけです。勿論そうではなく自然な流れでそうなっている曲も山ほどあるので、あくまで「無難な作り方としては」程度の話ですが。
こういう「フレーズの単位」と言うのは、聴いているだけだと分かりにくいのですが、アレンジする場合は「どこで曲想を変えるか」、参加させる楽器やカウンターメロディを変える区切りとして重要になって来ますし、演奏者に裁量権がある場合はどこでフレーズを変えるか、どこでどう盛り上げてメリハリを付けるかと言う判断の基準感覚となります。例えば、余り誉められたプレイではありませんが、フレーズの区切りに来ると初心者ドラマーならクラッシュシンバルを叩きたくなるでしょう。
本曲においては弱起の部分を除いても、A、B、C 各パートでいちいち原則を外しているのですが、ここではその処理が実に巧みである事に注目してみたいと思います。
A メロでは「たとえ」までを弱起と解釈して、「ば」から歌本体としてカウントすると、最初のコメントで書いたように「残りの歌詞が3行用意されている」事により最後1行の2小節が4の倍数からはみ出します。
ここには2つの仕掛けがされていて、一つは「教えてよ~♪」から後ろを
「1234、2234、3234、4234、まだまだあるよ、ジャンジャン、弱起っ!」
と、先行するフレーズに上乗せして2小節かけてダメを押すスタイルにしていること。実はこれが後になって B メロで効いて来ます。
もう一つは、最初の壮大な弱起が終わって歌に入ったところで「ドコドーン!」とぶちかます事で、敢えて出だしを安定させず、その後「たとえば」を繰り返しまくしたてるフレーズとの合わせ技で、リスナーに「歌の地の部分に入ったな」と認識させるポイントを遅らせていること。
これに騙されて「たとえば」の繰り返しが終わったところから数えると残りはきっちり8小節なので、「まだまだあるよ」の2小節が「はみ出している感覚」を軽減出来ているわけです。リスナーにはパートが変わる前に2段階で盛り上げてダメ押しされた感覚だけが残ります。
で、B メロ。
ぽぽんたさんが指摘されているように、歌詞を参照しながら追って行くと3小節単位で曲が構成されているように見えます。
しかし、B メロの前半4小節は
ロングトーン>三連フレーズ1>ロングトーン>三連フレーズ2
となっていて、歌詞上は「三連フレーズ2」は「次の行」に入ってしまっているものの、演奏としては4小節単位で解釈しても問題ありません。
実際にアレンジを見てみると、最初の2小節と同じ発想でその後の2小節が作られており、「三連フレーズ2」は一小節丸ごとが、続く2小節への弱起と解釈できるような演奏になっています。
つまりこの部分は、A メロで使われた
「1234、2234、3234、4234、まだまだあるよ、ジャンジャン、弱起っ!」
と言う構造をそのまま踏襲して演奏されていると考えて良いでしょう。
クラッシュシンバルを鳴らすのであれば「つのる思い」の頭では無く「伝え」「切れな」「い」、とダメ押し部分で早くなっているコードの動きに合わせたくなるはずです。
リスナーは「終わるはずのところで盛り上げのダメ押し」をここで再度体験する事になります。
こうやって、A メロで見せた「4+2=6小節」構成を一度再現してみせておいて、B メロ後半では3小節目まで同じような構成にしておきながら、4小節目でガラリと曲想を変えて明らかな「3+3」に置き換えています。
A メロ、B メロ前半と少しずつフレーズの区切りを混乱させて来た「仕上げ」の部分と言っても良いでしょう。この伏線の張り方は見事と言うしかありません。
非常に蛇足ですが、ここまでの「仕掛け」をせずにいきなり「3+3」を提示するのはかなりの唐突感を与える冒険になるので、その場合はたとえば、
彼には 愛しい人が いる (いる)< コーラス等で1小節追加
などと言う「無難な」構成になっていたかも知れません。同様に、
私だけの 人じゃないの
の後ろに派手なキメを2小節突っ込んで合計4小節にしていても普通に成立したでしょう。
そもそもこの部分はブレイクに近いニュアンスなので、逆に「人じゃないの」と同じ小節に「たとえたとえで」の弱起部分(「た」)を押し込んでも、1/4 や 2/4 の変拍子小節を挟んでも、それらはそれらで、歌としては少々慌ただしくて情感をこめら切れないかも知れませんが、「一つのメロディ」にはなったと思います。
同じ「6小節」の見せ方を三回に渡って変えて来ると言う、この構成は恐ろしく緻密に計算されたものであると感じられます。
一方、C メロはもう少し単純です。
たとえたとえで たとえても たとえ切れない やるせなさ
の最後の「さ」を小節の頭に持って来るために 2/4 の小節を挟んでいるわけですが、メロディのラストノートが3拍目に来る歌は珍しくありませんから、変拍子を挟まずにストリングスの駆け上がりを1拍にしてそのまま間奏に入っても OK ですし、原曲のスピード感は失われますが、
たとえ切れない|(チャン、チャン)やるせな|さ~
でも良かったわけです。
ここで 2/4 を挟んだ事で、一つにはボーカルのロングトーンをしっかり聴かせる効果もありますし、後述する予定ですが、2番が終わってハーフに繋がるブリッジ部分で「小節の頭に合わせた」事が非常に生きて来ます。
6小節の聴かせ方にしても変拍子小節を挟む判断にしても、実は「無難な作り」に逃げるための選択肢が豊富にあったにも関わらず、敢えてこのような挑戦的な構成を採用するだけの「自信」と言うのは素晴らしく非凡な才能であったと思う次第です。
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by もっふん (2017-08-12 03:18)
【ベースラインについて】
これは書き始めるとキリが無いので困ってしまいます。しかも文字で表現するのが難しい。><
A メロは、演歌からポップスまで8ビートの王道である「ボーンボボーン」。
B メロは、16分音符で跳ねて単純な8ビートでは無い事を表現しています。
C メロは16分フレーズ咲き乱れて、なんつーか、・・・フリーダム? (´・ω・`)
以上。(キリッ・ばき
・・・じゃなくて(^o^;
私が注目したのはイントロや間奏のパターンなんですよね。なので今回はそこだけ。
2拍目の裏を弾いて(つまり3拍目を食って)、3、4拍目は基本弾かないと言う「ボーッボーン」と言うパターンなのですが、バスドラムはずっと四分音符で踏んでいるのを完全無視です。この時代としては少々珍しかったのではないかと思います。
ドラムやオケ全体と合わせた「リズムのキメ」としての3拍目食いは、「かもめ」では
あなたは 一人で (生きられるのね)
「迷い道」でも
私はいつまでも待ってると
の部分で使われていますが、渡辺真知子作品で、歌の無い所だけとは言え「基本リズム」として演奏されたのはこれが最初です。
「かもめ」のイントロ(アヴァン後)ではバスドラとユニゾンでルートと5度を四分音符で足踏みするように弾く事で推進力を出していましたが、それと対比すると「せわしなさ」が無くて、3、4拍目を弾かずにリスナーの脳内補完に任せる事でスペース感(広がり)のある空中疾走感を感じさせます。
「ちょっと待て。『かもめ』の A メロは3拍目食ってるでしょ?」
はいはい。その通り。
ですが、その音価は4分音符一個分で、半拍の休みの後、4拍目も弾いています。しかもバスドラとユニゾンです。聴き比べると分かると思いますが、「かもめ」の A メロは非常にスクエアでタイトな印象ですよね。前に書いたようにベースは休符でもビートが発生するので8分音符にわけると一小節が「2・1・2・1・2」(「1」は休符)とかなり細かく刻まれているのです。
本曲のイントロは「2・1・5」となっています。
イメージとしては一拍目でバケツに貯めたエネルギーを、スネアドラムの顔を立てた「1」呼吸だけ待って、小節後半に向かってザーッとぶち撒けちゃうような感じです。イントロ後半になって4拍目にオカズを弾くようになっても、このある種「後は任せた、行って来ーい」と言う感覚は維持されています。
バスドラが律儀な4つ打ちで、オケが自由に歌うその下で、それらと重ならない別のリズムをベースが刻んでいる事が、イントロ全体のリズムの自由さ・解放感を演出しています。
バンドでこのベースを弾いていてアレンジに対して発言権があったならば、「11小節目(ストリングスが上行する前に2分音符相当の音2つで一旦落ち着かせているところ)の全体のキメも、食った方がカッコ良くない?」と提案したと思います。
実際に曲を聴いてみても、なんだかみんな食いたそうなのに無理していると言うか。
そこに、ぽぽんたさんの「人間がタクトを振っているのでテンポの揺れがある」と言う解析を見て「これだ!」と思いました。
波形編集ソフトで音のピーク位置からイントロの4分音符一個の長さを調べてみたところ、
冒頭4小節:433.00 m秒
続く6小節:435.25 m秒
おお、確かにテンポが緩んでいます!問題はここからの11小節目。
キメ一拍目:442.50 m秒
キメ二拍目:426.50 m秒
やっぱり、放っておくとみんな食ってしまうので、一拍目のタクトを思い切り遅く振っている事が分かりました。足して割ると 434.50 m秒。「音数が少ないところは走ってしまう」方が自然なので、これはソフトの誤差を考えると猛烈に安定した指揮棒です。
逆に音数の多い次の2小節は 438.38 m秒、リスナーが待ちきれないほど長い音の弱起部分2小節は 431.38 m秒。自然に聴こえるようにきっちり「教育的」にペースメークした上で、メロディが安定すると10小節平均で 435.60 m秒と、イントロの「地」の部分と誤差範囲で全く同じテンポに戻っています。
このタクトは船山先生が振られたのでしょうか。「ただ正確」なだけでは無くて、演奏者の気持ちを先読みしてリアルタイムで調整するとは、もはや畏敬の念を感じるしか無いですね。
ぽぽんたさんが常日頃から主張されている「人間が演奏するから面白い」と言うことを、はからずも数字で証明してしまう結果となりました。
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by もっふん (2017-08-12 06:14)
【ロックしてるね、ベイベ☆】
疲れたよ、パトラッシュ・・・ (´・ω・`)
でも「今日には記事を更新するから、とっとと書け!」と、さる筋から(ばき
※冒頭、些末な事ですがぽぽんたさんの楽譜の10小節目のコードは「♭」が抜けてますね。イントロと間奏で登場する「C7+5」は何か他の解釈がありそうにも思います。
ぽぽんたさんがご指摘の「ハーフ前の左chのエレキ」、カッコイイでしょう?
ここ、調号を外して書き直すと、ベースが「ラーッソファー」と下行して行くのにエレキはずっとAm一発にワウ(ペダルじゃなくてタッチワウじゃないかな)をかけて弾き倒しているんですよね。
「日曜日はストレンジャー/石野真子」のコメントでも触れた「太陽に吠えろ」的なペダルトーン(コードが変わっても弾き続けられる同じ音)を使ったプレイですね。
先述のように C メロの最後に 2/4 の小節を入れてラストノートを小節頭に持って来た事でこういうアレンジが可能になるわけですが、ここだけ聴くとちょっとヘビメタなんかにもありそうな展開で、こういう「様式美」を織り交ぜた曲はとても好きです。
一方、このエレキ、歌の裏でも16ビートのカッティングをオシャレに弾いてくれています。ぽぽんたさんが「8ビート」と断言せずに「~が基調」と書かれた理由は、一つには曲後半のベースのフレーズもあると思いますが、このエレキの存在感も非常に大きいと感じます。
実は'70年代前半の歌謡曲でエレキギターが前面に出て来る事は滅多にありませんでした。ロカビリーやGSブームがありましたから、一つには「不良の楽器」と言うイメージが延々と付きまとっていた事と、イントロや間奏でギターソロをフィーチャーすると歌手が食われてしまう(当時のギターソロは音色が歪み一辺倒で攻撃的でしたから)、歌手以外にスポットライトを浴びるようなフロントマンは邪魔だ、と言う事情もあったのでしょう。
日本でフュージョンが興隆したのは'70代後半~'80年代頃ですが、ちょうどこの時期に歪み系以外の各種エフェクター類が充実し、コンプレッサーを始めとして、ナチュラルな歪み(俗に言うオーバードライブ)にディレイやコーラス、フェイズシフター(もしくはフランジャー)と言った「まろやかな」ギターサウンドが確立しましたし、ポプコンや East & West 出身の「健全な」バンドが音楽シーンで地位を確立した事もあり、いろいろな意味で J-POP にエレキギターが使われる下地が完成しつつあったのだと思います。
ところで、Cメロ直前のグリスダウンは、ハープシコード(チェンバロ)だったのですか。一言でハープシコードと言ってもこの楽器は非常にバリエーションが多く(統一された様式が無く、各地でその場の事情に合わせる形で作られたケースが多い)、その中の一つだと言われてしまえば納得するしかないのですが、チェンバロほどのアタックの固さやディケイの短さを感じる事が出来ず、「生オケが入っているにも関わらずストリングスシンセサイザーっぽいオルガン(ソリーナ系?)を使っていて面白いなあ」とか思っておりました。己の不明を恥じるしかありませんね(苦笑
二週間たっぷりたのしませて頂いて、頭の中では
数え数えで 数えても 数えきれない 十六茶
とかワケの分からないフレーズが再生されるほどになりました(爆
まだまだネタはありそうですが、
語り語りで 語っても 語りきれない やるせなさ
を感じながら幕引きとしたいと思います。
有難うございました
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by もっふん (2017-08-12 07:47)
★「月明かり」作ってみました★
のんびりしてたら新曲が発表されるみたいなので、今日は大盤振る舞いですw
過去記事へのコメントは「最近のコメント」への反映が遅れるようなので、
興味のある方は
http://orikarapoponta.blog.so-net.ne.jp/2017-04-24
をご覧下さいませ。
正直、作っていてまだ迷いのある部分も多いので、皆様からのご意見・アドバイス・悪口雑言、どんなリアクションでも頂けるのでしたら歓迎です。(^_-)-☆
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by もっふん (2017-08-12 10:40)
ぽぽんたさん、こんばんは。
もっふんさんがいろいろ書いていらっしゃって、読ませていただき楽しかったのでまたお邪魔します。ありがとうございます。
伊藤アキラ先生の代表作で特に思い出深い2曲が挙がってました。
「恋人試験」は、サビの歌詞は私の一生の目標になってます。そういう人を好きになるだけでなく、自分が「65点」を維持できてるか。難しいです。
フォーリーブスについては、再結成が嬉しくて(2002年。当時25歳でしたが)ファンクラブに入り、我が町福岡でコンサートがなかなかなくて大阪に一人旅して見に行ったり、いろいろ思い出があります。「ブルドッグ」は、再結成してからテレビ番組に出ると必ず歌っていました。毎回嬉しかったけど、特に「思い出のメロディー」出演は何よりもすごくすごく嬉しかったです。
年明け効果…確かにありますね。
「喝采」はレコ大使った宣伝効果でものすごく大ヒットして、うちにもシングルレコードがあります。で、レコ大はちあきなおみさんの翌年にも、五木さんの「夜空」が発売してすぐ大賞受賞でしたね。
昭和48年の五木さんはレコ大が予想外だったのか…レコ大「夜空」、紅白「ふるさと」で分かれました。レコ大受賞曲と紅白歌唱曲が違うのは、たしかこの五木さんのケースが初めてです。
真知子さんも、昭和53年大晦日は曲が分かれましたね。レコ大「かもめが翔んだ日」、紅白「迷い道」。この年の紅白はレコ大歌手のピンク・レディーが辞退したからか、森光子さんが「レコード大賞最優秀新人賞受賞、渡辺真知子さん!」と、新人賞の紹介をしていたのが珍しかったです。
思い出します。
by もとまろ (2017-08-13 23:16)
もっふんさん、こんにちは! こちらへのお返事がうんと遅れて申し訳ありません。
…いやいや、もう読み応え十分で、しかも私が気づかなかった事を含めほぼ同意して
しまう説得力、恐れ入るばかりです。
年明け効果についても言葉(アクセント等)についても、なるほど!と思う事ばかりで、
そんな返事しか書けない自分が情けないやら…。
本当は話題の一つ一つに全部自分なりの見解も書きたいのですが、途方もなく長くなる
事は間違いなく、しかも時間がすごく掛かりそうなので…申し訳ありません。
さらに楽譜の間違い(コードネーム…今見直したのですが、確かにD♭M7が正しいです)まで
指摘して頂いて…と言う事は、本当に隅から隅まで真剣に読んで下さっているんですね。
ありがたく嬉しいですし、心強いです。 怖くもありますが(^^;)
そして、これまで以上に推敲・校正に身を入れる必要も感じてます。
私は詞は全く書けないので曲を書くしかないのですが、テーマが明確だと、
メロディーは必要な言葉を引き出す力を持って生まれる、と言う事は何となくわかるんです。
そう言えば、私がメロディーを考える時には歌う人を想定している…といつか書きましたが、
その時も大抵その人は何らかの言葉は発しているんです。
以前、ブログで発表させて頂いた曲に歌詞を付けて下さい!と募集した時、
「この言葉だけは使って下さい」とお願いしたものがありますが、
それはそんな感じでメロディーと言葉が一緒に浮かんだものなんですね。
結局ヒットして人の記憶に残る曲は、ほとんどの場合メロディーと歌詞がペアで
あるものなので、それを探り出すセンスが重要なのかも知れません。
そしてそれがうまくいっていると、イントネーションやアクセントについても
問題ない、あるいは真逆に合っていないから記憶に残る、なんて場合もあるわけで、
それが許されるのも歌謡曲の特権かも、などと思ったりします。
そういう意味でも「たとえば…」は様々な試行錯誤の結果に生まれた曲なのだろう、
ともっふんさんのコメントを読ませて頂いて改めて感じました。
「月あかり」の歌詞、ありがとうございました。
もう私の想像を遥かに超えた、と言うかこういう解釈をしてもらえたんだ、と
不思議な気持ちです。
私はその曲を書いた時、暗い部屋のグランドピアノと、その部屋から見える満月を過ぎた
くらいの月を思い浮かべていました。
なぜあのようなメロディーになったのか、またCからA♭へとやや変則的な転調が
なぜ出てきたのか、よく憶えていないんです(^^;)
なので、もっふんさんが書いて下さった歌詞を読んで「このメロディーにはこのような
言葉を引き出す何かがあったのか」と驚いた次第です。
いや、力があったのではなくもっふんさんがカラーを着けてくれたのですね。
歌ってくれる人もいるかな(^^)
詳しい考察と解説、誠にありがとうございます!
by ぽぽんた (2017-08-15 23:36)
もとまろさん、こんばんは!
「恋人試験」、いい曲ですね。 私の年代ではあの歌声を聴くととっさに
「バスボン」のCMを思い出しますが、歌をしっかり聴くと何とも切ないんですね。
歌詞よりもサウンドのせいかも知れませんが、65点の人が好き、という発想が
当時すごく新鮮でした。
「ブルドッグ」は色々な意味でつかみどころがない曲に感じるのですが、
歌詞はかなり強烈で、テレビで聴いた時は驚いたものです。
フォーリーブスの曲では「夏の誘惑」が好きでしたが、一番憶えているのは
「シャボンの匂いの女の子」が発売された時にテレビで新曲として
CMが流されていた事なんです。 私が小学2年の頃でした。
今では2人も欠けてしまったのが何とも寂しいです。
そうですね、「年明け効果」は今思うとかなり残酷な気がしていました。
あ、この人は人気が落ちるな…と、そんな勘って若い頃は特に鋭いもので、
ほとんど当たっていました(^^;)
1970年代はレコード大賞と歌謡大賞が双璧で、歌謡大賞が11月に発表でした。
で、1972年の歌謡大賞は「瀬戸の花嫁」(小柳ルミ子)、1973年は
「危険なふたり」(沢田研二)だったんですね。
当時、私はそのような番組はまさに食い入るように観ていたものです。
で、「また逢う日まで」(尾崎紀世彦、1971年)のようにレコ大も歌謡大賞と
同じ曲になる事があったので、「喝采」「夜空」についてはちょっと拍子抜けした
ような記憶があります。
by ぽぽんた (2017-08-15 23:50)
「月明かり」については音源の置かれている「緊急告知」の記事の方にコメントしますね。
もとまろさん、ぽぽんたさんお二方が揃って指摘しておられるように、当時「恋人試験」を聴いた人は皆「え?百点取っちゃダメなの?65点!?」と言う部分に耳を奪われた事でしょう。
これ、「どう頑張っても65点しか取れない」のではダメなんですよね。本当は百点を取れるけれど「わざと間違える」と言う。子供の頃は「そんなに面倒臭いものなのかなあ」とピンと来なかったもので、私の場合はある程度歳を取ってから「なるほどね」と言う境地に至ったようにも思います。
主人公に代表される女の子も、そしてリスナーの男の子も、自分にダメなところがある事は分かっていて、誰もが少なからぬコンプレックスを抱えているものです。百点の答案用紙にはそういう「目を背けたい自分の姿」も正確に書かれてしまうわけで、逆に言うとこの「65点」と言うのは主人公自身の自己評価点でもあり、それ以上は(分かっていては欲しいけど)言ってくれるなと言うラインなのでしょう。
実は「たとえば…たとえば」の歌詞についても、この件を引き合いに出すか迷って省いた経緯があります。誰もが期待する言葉を発し、望まれるような行動を取れる人は「百点」な存在であって、本当に誰か一人の事を思うのであればいくつかの解答欄は捨てて空白にするのが正しいのだと。
複数の人の間で百点を取って回る事は八方美人を意味し、一対一の関係の中で完璧な答案を作る人はちょっと堅苦しくて心が休まらない。
出来るけど敢えてやらない、気づいてるけど知らん振りをする。人間関係においてはそういう事が大事なんだ、と伊藤先生は一貫してお考えなのではないかと思ったわけです。
まあ、私は「どう頑張っても65点しか取れない」クチなんですが(苦笑
そんな私でも何かになれそう? ね? バスボン!(ばき
ブルドッグは「アイドルなのに、どうしてこうなった?」と思うほど硬派な歌詞でありながら、その締めがゴムバンドを使ったパフォーマンスをしながらの「にっちもさっちもどうにも~」ですからねえ(笑
都倉俊一先生は、ピンクレディもそうですが、ああいう「一瞬にしてステージを華やかにする」曲を作るのがお上手ですね。シングルの売上は芳しくなかったようですが、ライブで盛り上がるタイプの楽曲である事は間違いなく、その後も綿々とジャニーズの後輩たちが継承して歌っていると言う話にも頷けます。
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by もっふん (2017-08-16 11:46)
こんばんは!\(^^)/ やっとコメント送信機が新たになり、またこうしてコメント出来る様になりました。
今日の徹子の部屋は流石に見逃しましたが、今わたくし青大将は渡辺真知子に嵌まって居る最中に御座います。
今月1日、近隣町の秋祭りの地元ラジオの公開放送ゲストに、売り出し中のイケメン若手演歌歌手と共に目玉のゲストとしてやって来た渡辺真知子。見馴れた公民館の建物をバックに造設された野外ステージに、派手な赤黒白を基調とした大きなドット柄の衣装を身に纏い現れました。辺りに響き渡る豊かな声量を轟かせ乍らパワフルなステージを展開。
開始時間が判らなく、ラジオを点けたらアレンジした「迷い道」が聴こえて来たので、しまった!もう始まっとるやん、と慌てて車を飛ばし会場迄向かいました。(^^;
家から20分そこらなので充分間に合いました。ラジオを聴きながら走行してたのですが、先の迷い道はどうやらオープニングの演出で、前半はイケメン演歌歌手のステージ、そして後半が渡辺真知子の見せ場だと判り余裕でした。
駐車場に車を駐めて通りを渡る時に、会場から「次はいよいよ再び渡辺真知子さんの登場です!」という女性司会者の声が響いて聞こえて来たので、足を速めて辿り着くと先述の光景が視界に拡がって来た訳です。
何曲も歌いましたが、演奏はバックに添えた女性の方が奏でる電子ピアノだけですけど、何しろあのボーカル、物足りなさはありませんでした。
「かもめが翔んだ日」「ブルー」は絶対歌うだろうと確信してましたがビンゴ!
いずれもアレンジバージョンで、「かもめ~」はラストに持ってくるほど。
しかし、その「かもめ~」は途中スペイン語かポルトガル語のスペシャル・バージョン。
「ブルー」は途中何処かで『イエイ!』が入ってて、内心《え!この曲にイエイ!は要らんだろ・・・(^^; 》と思い乍ら聴いて居りましたが、やはり名曲ですねえ。リリースが秋でしたし、季節的にもしっくり来ました。
「唇よ、熱く君を語れ」も歌いましたよ、ライブにはうってつけのナンバーだと改めて思いました。
「いのちのゆくえ」という、深い歌詞のナンバーは後に聴いたCDのオリジナルよりも情感込めて、より力強く歌ってくれました。何か凄くジーンと来たんです。感動しました。
実は、「たとえば・・・たとえば」も、次の「別れてそして」も収録されてるアルバム「遠く離れて」をそれよりも少し前から聴き直して(勿論、LP盤で)嵌まって居た処だったので、今回の野外ステージはまさにリアルタイムでした!
ステージ終了後、少し場所を移したテントでのCD即売会で3枚組の本人セレクトに選る¥4000の商品を購入してサインして頂いたのですが、サインを書いて呉れてる最中、ドキドキしながら「最近、「遠く離れて」聴き直して嵌まってます」と言った処、書き乍ら「わぁ、2枚目のアルバム。」(実際は3枚目のアルバム)と返して下さったので、すかさず「『異国にて』に特に嵌まってて、毎日聴いてます」と言ったら、にこやかに顔を上げて「まあ、ロマンチックな方」と更に返して呉れました。
もう一度書きます、『ロ・マ・ン・チ・ッ・ク・な・方』(此処重要です(^-^)v)
帰り道の車内で早速購入したCDを聴きました。
最初に「迷い道」「ブルー」「たとえば・・・たとえば」「別れてそして」等が収録された【disc 1】 を繰り返し集中的に。 正直、このトラックが馴染みが強く、いちばん嵌まるのだろうと思っていたら、
甘かった。【disc 2】はホントに素晴らしく、【disc 1】同様、これまでの様々なアルバムからシングルも交えたご本人のセレクトで構成されてますが、もう1曲1曲がホントにグレード高く、しばらくこのdiscから離れられませんでした。
昨夜、やっとライブ音源ばかりを集めた【disc 3】に移行出来ましたけど、未だ途中乍らこれも素晴らしいですね。
冒頭の、「迷い道」以前のオリジナル曲「オルゴールの恋唄」(1975年)で、貴重な10代の頃の歌声が聴けるのもお得感満載です。渡辺真知子は基本、声自体変わらないのですが、それでも矢張り何処か若く、初々しい印象がありました。 極めつけは、歌い終わりの「ありがとうございました」の挨拶です。ホント、声が若い!
今日はこの辺りで一応置きますけど、「たとえば・・・たとえば」自体のコメントや、まだまだ書きたい事もあるので、また後日。(^-^)/
「モンテカルロで乾杯」まで未だ未だ道のりが長い・・・・・・
by 青大将 (2017-10-11 23:45)
青大将さん、こんばんは! お久しぶりです(^^) あの、「コメント送信機」って
PCの事ですか?!
一昨日、その「徹子の部屋」が放送され、録画して早速観ましたが、いやはや3人とも
それぞれパワーに満ち溢れている感じで素敵でしたよ。
それと相反するように、滑舌が悪くなった黒柳徹子さんが心配になったりしました。
太田裕美さんと庄野真代さんは結婚して家族がいるので(庄野真代さんに孫がいると
知って、つくづく月日の流れを感じました)その話が多かったのですが、そんな時
渡辺真知子さんがちょっと浮いてしまっていたのがちょっと気の毒に思ったりしました。
それはともかく、渡辺真知子さんのパワーはまだまだ健在なようですね(^^)
デビュー当時の歌声は伸びやかですが、今の歌声はとにかく太くて女性離れ(変な表現かな)
していますよね。 しかし「かもめが翔んだ日」などもキーを変えずに歌っているのは流石です。
青大将さんがライブ会場で購入されたのは「いのちのゆくえ~My Lovely Selections~」
ですよね。
私は持っていませんが、ファンの間で評価の高いベストアルバムであるようで、
私も青大将さんのコメントを読ませて頂いて俄然興味が出てきました。
そして渡辺真知子さんと直トークされたとは! それは嬉しいですね(^^)
それもちゃんと、青大将さんが話しかけた内容に答えてくれているのは…羨ましいです。
でも私は前から「青大将さんって、きっとロマンティストなんだな」って事は
気づいていましたよ(^^)
渡辺真知子さんのこれからの活躍も楽しみですね。 昭和歌謡ブームは相変わらず続いている
ようなので、その中軸になれる存在と思います。
by ぽぽんた (2017-10-13 22:57)