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考察・小柳ルミ子

今回も調子に乗って評論家風に考察してみました:

わたしの城下町.jpgお久しぶりね.jpg

小柳ルミ子ほど、優れた実績に比してその存在が重要視されない歌手も珍しい。
歌手の実績として最も重要なのはレコードの売り上げだが、
小柳ルミ子のシングル盤は、オリコンチャートで最高位が20位内に入ったのが19曲、
そのうち10位以内に入ったのが12曲、3位以内に入ったのが7曲、首位獲得が4曲。
中でも「わたしの城下町」「瀬戸の花嫁」「お久しぶりね」などはほぼスタンダード…
と、十分すぎるほどの成績を残している。

1970年代前半に新三人娘が人気を博したが、その中でも小柳の実績は抜きん出ている。
天地真理はオリコン首位曲が小柳よりも1曲多いが、シングル曲が10位以内にランクされたのは
1972年から1974年で足掛け3年。
南沙織のそれは1971年から1975年で足掛け5年。
しかし小柳ルミ子は1971年から1983年の足掛け13年。
アイドル的な人気が落ち着いた1975年以降はヒットは散発的だったが、
他の二人よりも圧倒的に長い間ヒット曲が出ていた。

それを見ただけでも間違いなく大スターなのだが、昭和歌謡が持て囃されている現在でも、
歌手・小柳ルミ子の名前をメディア等であまり見る事が無いのはもどかしいものがある。

今回は、デビューから1974年夏までを第一期とし、その期間の実績を中心に語りたい。

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小柳ルミ子の歌唱は、デビュー曲「わたしの城下町」ですでに完成されていた。
作曲の平尾昌晃は、小柳の声域もろくに調べずにこの曲のメロディーを書き上げていたそうで、
小柳は著書で「もし私が上の『ミ』を出せない歌手だったらどうなっていたのでしょう」
と書いている。

自身で練習を重ねて臨んだレコーディングでは、最初のテイクでほぼ完璧な歌唱だったそうで、
その後はどの曲のレコーディングでもいつもそのような調子であったため、
制作者関係には「テイクワンのおルミ」と呼ばれていたそうだ。

デビュー曲はオリコン首位を12週続け、売り上げ134.3万枚を記録する大ヒットとなったが、
小柳ルミ子はいわゆる「一発屋」にはならなかった。
2曲目の「お祭りの夜」は50.9万枚(最高2位)、3曲目の「雪あかりの町」は23.2万枚(最高5位)
と売り上げは約1/2ずつ減っていったところに4曲目「瀬戸の花嫁」が発売され、
再びオリコン1位、74.1万枚を記録する大ヒットとなる。

続く今陽子のカバー「京のにわか雨」もオリコン1位を獲得した後、しばらく中ヒットが続き、
1974年夏の「ひとり囃子」では同最高位が初めて20位外となった(21位)が、
その次の「冬の駅」で2年ぶりに1位を獲得し、小柳よりも半年遅いデビューながら当時、
人気の低下が顕著になってきていた天地真理とは対照的に、
小柳ルミ子が人気に頼らず、楽曲に恵まれればヒットさせられる歌手である事を知らしめた。

小柳ルミ子はその後も1977年には「星の砂」(最高2位、53.5万枚)、
1983年には「お久しぶりね」(最高8位、39.7万枚)と大ヒットを重ねる事になる。

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小柳ルミ子の第一期のヒット曲は、簡単な振りはあるものの、
淡々と聴かせる穏やかな楽曲が多かった。

歌唱法には特筆すべき点が2つある。

一つは大きな肺活量で、それが特に感じられるのは「わたしの城下町」。
1番の歌い終わり ♪行き交う人に…心は燃えてゆく♪ の長いフレーズを途中ブレス無しで
一気に歌っており、それはハーフ部の ♪ゆらゆら揺れる…気まずく別れたの♪ でも同じ。
全く苦しげではなくむしろ余裕たっぷりで、大きく盛り上げて歌い終わっている。

もう一つは、地声と裏声を自在にまぜこぜにして歌う事である。
女性歌手は地声で高い声の限界近くまで出し、その上は裏声にするか、
最も低い音程から高い音程まで裏声のみで歌うパターンのどちらかである場合が多いが、
小柳は地声でも楽に出せる中音域でも裏声を使う場合や、
かなり高い音程まで地声で出す場合があり(声域については後述)、
その使い分けは歌の内容を理解した上で小柳自身が決めていたものと思われる。

小柳の声質は、地声がハスキーがかった特色のあるもので、
裏声は地声よりも丸みを感じさせながらも特色が残った音色であり、
地声・裏声に関係なく声質自体にすでに色気と情感が感じられるのである。

また曲によっては、独特の「泣き」が感じられる。
特に「わたしの城下町」のB面「木彫りの人形」や「お祭りの夜」での、
泣きが入って歌い終わるところは絶品である。

裏声は高い声が楽に出せる代わりに倍音が削られ丸い音になりがち、
また声量も地声に比べて小さくなりがちなのだが、
小柳の場合は地声の音色が裏声にも反映し、声量もほぼ変わらない。
そのため、音域の広いメロディーでも、例えば由紀さおりや岡崎友紀のように、
ある高さから急に「裏声になった」と感じさせずに歌い通す事ができている。

そのため、あの曲だとこの音程では裏声なのにこの曲では地声…と言った事も多々あり、
例えば「京のにわか雨」では、Bメロの ♪…ひとりぼっち 泣きながら♪ は地声だが、
「わたしの城下町」「お祭りの夜」などで同じ音程を使うフレーズでは裏声だったりする。

すなわち、小柳の場合は地声ではここから高い声はもう出ないから裏声に…ではなく、
どちらでも歌える音程で切り替えている事が、音域の広い曲もスムーズに歌える要因である。

数は少ないが、地声から裏声に変わるのをハッキリ確認できる楽曲もある。
例えば「春のおとずれ」の2番のAメロで ♪お茶を運んだ 障子の外に♪ では、
「障子の」の「のー」と音程が上がる部分で地声から裏声に切り替わるのが確認できる。

特色のある声質、正確な音程、深く豊かなビブラートを含む高度な歌唱テクニック、
そしてそれぞれの楽曲に対する的確な解釈により、
小柳ルミ子は新三人娘の中で突出した歌唱力を発揮していたのである。

小柳ルミ子が音源に残している声域は、
下限がF#3(「十五夜の君」等)、上限は地声だとB4(「お久しぶりね」「今さらジロー」等)、
裏声ではF5(「漁火恋唄」)で、あと半音で2オクターブに届くほどの広さだ。

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新三人娘の中では最も活躍した期間の長かった小柳ルミ子だが、
人気的には天地真理、南沙織と同様に1972年がピークで、
楽曲では1974年夏の「ひとり囃子」までが前述した第一期と考える事ができる。

次の「冬の駅」ではヘアスタイルを変え、それまでのカジュアルな衣装から
楽曲に合わせた衣装の着用が目立つようになり、
その楽曲も日本的な情緒を意識しないものが主になってきたため、
第二期に入ったと判断できる。


ここで第一期の楽曲を振り返ってみよう。

デビュー曲「わたしの城下町」はその後の楽曲に大きな影響を残した。
「お祭りの夜」「雪あかりの町」「瀬戸の花嫁」「京のにわか雨」「漁火恋唄」「春のおとずれ」
「十五夜の君」「恋の雪別れ」「花のようにひそやかに」そして「ひとり囃子」と、
シングル8枚目の「恋にゆれて」以外はどれも、「わたしの城下町」で打ち出し、
国鉄のキャンペーン「ディスカバー・ジャパン」のコンセプトを通していると思われる。

作詞は安井かずみ、山上路夫が主で、「京のにわか雨」がなかにし礼、
「花のようにひそやかに」が阿久悠、「ひとり囃子」が喜多條忠。
作曲は「春のおとずれ」が森田公一、「十五夜の君」が浜圭介、それ以外は平尾昌晃。
編曲は森岡賢一郎が全曲を担当している。

当時の歌謡曲は大ヒット曲が出ると次も同じ路線で二匹目のドジョウを狙うパターンが多かったが、
小柳ルミ子の楽曲で明らかにそれが感じられたのは第二期以降の「冬の駅」→「黄昏の街」、
「星の砂」→「湖の祈り」であり、第一期にはそのパターンがほぼなく、
新曲のたびに新しい要素を積み上げていった印象が強い。

そして小柳の安定した歌唱と、森岡賢一郎の幅がありながらも統一感のあるアレンジにより、
バラバラ感が少なく、どれを聴いても安心感のある心地よい仕上がりになっている。

その中で冒険作と思われるのはシングル6作目の「漁火恋唄」と10作目の「恋の雪別れ」。

「漁火恋唄」はヨナ抜き短音階を軸に作られたメロディーの流れるように進行するかと思うと
突然♪ハァ~…♪と民謡風になり、ついには無伴奏で歌い上げ間奏やエンディングに…
と、自身の持ち歌だけでなく全歌謡曲の中でも多分にアグレッシブな1曲であり、
小柳はこの難曲をテレビやステージなどの生歌でもキッチリとこなしていた。
大変な実力である。

「恋の雪別れ」はその前作「十五夜の君」までの、やや演歌歌手的だったイメージを覆し、
ポップス寄りのアレンジとサウンドに挑戦し成功した意欲作である。
シングルでは初めて女性コーラスが入り、ドラムスの独特なサウンドやボーカルにかかる
エコーの曲中オン・オフなど、それまでに無かった試みが聴き取れる。

逆に似たタイプの楽曲も確かにあって、例えば「恋にゆれて」は「瀬戸の花嫁」、
「十五夜の君」は「京のにわか雨」+「漁火恋唄」のようなイメージがある。
しかし前述の「冬の駅」→「黄昏の街」のような露骨な二番煎じではないので、いいとしよう。

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「なんであんなになっちゃったんだろう」

1960年代~1970年代にデビューし、やがてイメージが変わり
かつてのファンにそう言わせた女性歌手は多い。

弘田三枝子に始まり奥村チヨ、梓みちよ、小川知子、天地真理…
イメージチェンジが成功し大衆に受け入れられるケースも多いが、失墜するケースも多い。
小柳ルミ子もその一人だろう。

1970年にNHK連続テレビ小説「虹」で主人公の娘、かおる役でテレビに登場し、
翌1971年3月にそれが終了しその翌月に「わたしの城下町」で歌手デビュー。
当時の「朝ドラ」の視聴率と影響力は現在の比では無かったので、
「あ、かおるが歌っている。 おー、歌うまいじゃないか」
と思った人は恐らく、当時の日本の全人口の1/3ほどはいただろう。

筆者は当時まだ小学3年から4年になった頃だったので、「虹」のストーリーは憶えていない。
しかし「かおる」に日本人らしい、やさしい女性のイメージを持っていた事は確かであり、
全国的にも小柳にそのイメージが定着していたからこそ、
「わたしの城下町」は小柳の無垢な歌唱と楽曲が持つ日本的な情緒が広く受け入れられ、
大ヒットとなったのは間違いないだろう。

小柳自身は宝塚出身と言う経歴からも、本人の発言からもわかる通り、
デビュー当時から歌は勿論、ダンスパフォーマンスで活躍する事を望んでいた。
実際には、デビュー3年目である1973年夏のワンマンショーで早くもダンスを披露していたので、
本人としては着々とその方面でも活動する道筋を作っていたつもりであった事は想像できる。

しかし大衆は、小柳にはいつまでも日本人らしい可憐な女性である事を望んだ。
やがて小柳は欲求不満がふくらみ、機会があるごとに「可憐な女性」のイメージを壊し、
ダンサー、また大人の女優としても認められるべく活動していくのだが、
結局それは大衆には受け入れられなかった。
残ったのはこの章の冒頭の「なんであんなになっちゃったんだろう…」、だったのだ。

小柳が披露したかった芸を受け入れる場が少なかったのがその原因の一つだろうが、
それ以上に、小柳自身の顔立ち、声、所作が日本人らしい女性そのもののそれであり、
大衆に「外人かぶれしたルミ子は望んでない」と思わせたのではないだろうか。

そのあたりのバランスを考えると、宝塚出身の経歴もある小柳ルミ子には
ミュージカル女優が最も相応しかったのでは…と筆者は考えるのだが…。

大衆は移り気だから、もし小柳が別のイメージに走る事がなかったとしても、
突然飽きられてしまい、何をしても売れなくなる日が来ただろう。
しかしそうなったとしても、歌手としての小柳の実績は屈指のものであるから、
第一期に得た「大スター」の称号はいつまでも保っていたはず。

現実には結婚・離婚の騒動も含め、歌手活動以外の影響でその称号が薄れてしまったのは残念。
だがもっと残念なのは、小柳が自身が近年の著書で「私は大スターにはなれなかったが、云々」
と書いている事である。

その活躍を知っている我々のような年代の人間にとって、
小柳ルミ子は紛れもなく、大スターなのである。

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